2500年の仏教史を俯瞰
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日本人の「救い」一遍に帰結
日本仏教の過半を占める浄土教
南無阿弥陀仏で自然と一つに
2500年の仏教史を俯瞰(ふかん)すると面白いことに気付く。それは、一つの歴史の流れの最後に、全体を総合するような教えが出てくることだ。仏教が生まれたインドで言えば、大乗仏教の最終ランナーである密教は、土俗的なヒンズー教の神々も包含した神仏習合的な教えになっている。それが中央アジアを経由して中国に根付き、日本にもたらされた。
日本仏教の過半を占める浄土教では、中国で法華経を学んだ最澄が開いた比叡山で、念仏による救いを体系化した源信の『往生要集』が平安時代後期に書かれ、日本人の浄土信仰を決定的にした。それが庶民に広がるのは鎌倉時代の法然からで、法然はルターに匹敵する日本の宗教改革者と評される。
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冒頭の気付きは、日本の浄土教の歴史にも当てはまる。法然→親鸞→一遍という宗祖たちによる浄土教の浸透は、教えを先鋭化しつつ、古来からの信心・信仰を総合化している。彼らが唱えた「念仏」は、本来「観想念仏」を意味していた。釈迦(しゃか)仏教もインド宗教の瞑想(めいそう)から生まれたもので、肉眼では見えない仏を、瞑想により目の当たりに見るのが観相である。源信の言う念仏もそうで、その伝統は今も比叡山に受け継がれている。
しかし、それでは庶民には難しいので、「南無阿弥陀仏」と口で唱えるだけでいいとしたのが法然の「口称(くしょう)念仏」で、まさに革命的だった。柔軟な法然は貴族らの求めに応じて密教の呪術も行っていたが、弟子の親鸞はその教えを先鋭化し、俗世の在家を重んじ妻帯まで公開した。

もっともそれは、「和国の教主」と称(たた)えられる聖徳太子以来の日本の伝統なので、自然な流れとも言えよう。親鸞の難解な教えを分かりやすい歌の和讃にし、今に続く浄土真宗の裾野を広げたのが、親鸞から約250年後の蓮如である。
その日本浄土教のアンカーが時宗の一遍で、「阿弥陀如来はすべての人を救うと決めているので、念仏しなくてもよい」とした。伊予の河野水軍という武家に生まれた一遍は、法然の弟子に学び念仏を広める途上で、八幡信仰の宇佐神宮や他界の聖地・熊野の信仰も取り入れ、各地を遊行(ゆぎょう)しながら布教するようになる。
そして、信州で偶然、生まれた「踊り念仏」が一世を風靡(ふうび)するようになった。今でいうストリートダンスで救われた喜びに体が動き出し、その体に心が動かされ、集団演舞に広がる。やがて踊りの設備を用意する武士も現れてきた。今日、信徒数が最大の浄土真宗も、寺を持たない「捨聖(ひじり)」一遍の没後、時宗の勢力を取り込んだことが大きい。
空海を契機に仏教研究を深めた梅原猛は、晩年の著書『法然・親鸞・一遍』(PHP文庫)で「すべてを捨てて『南無阿弥陀仏』とひたすらに称えれば、天地万物と一体になれる、こうした思想が一遍の思想なのです。『白楽天』という能には、日本では歌というものは人間ばかりか、鶯も蛙も歌を詠むし、自然の声、風の声や雨の音もすべて歌であると言っていますが、一遍上人にとっては、すべては念仏だったのです」と述べている。
「天地万物と一体」とは、天台宗の「草木国土(そうもくこくど)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」あるいは「山川草木悉(さんせんそうもくしつ)有仏性(うぶっしょう)」で、無生物を含めあらゆる存在に生命を認めるという縄文時代以来の日本人の心性。これはインドにも中国にもない思想で、争いの少ない島国の長い狩猟採集時代に育まれた。その上に仏教を受容したので、ある意味、仏教の理想が日本で結実したのである。
私の長年の疑問は「救いとは何か」で、今は「(人を含む)天地万物と一体」がそうだと思う。信仰の重要な動機である罪や悪の自覚は、その契機の一つにすぎない。阿弥陀如来とは天地万物の象徴であり、一遍の言うように、念仏を唱えなくてもその気持ちになればいいのだと思う。実に現代的な教えである。
(多田則明)