国家鎮護のため創建された東寺 空海生誕1250年、親鸞生誕850年

ハスの花が咲く浄土真宗本願寺派本山の西本願寺=京都市下京区

京都駅の近くにある真言宗総本山教王護国寺(東寺、京都市南区)は平安京遷都まもなく国家鎮護のため創建された官立寺院で、桓武天皇を継いだ嵯峨天皇により弘仁14(823)年、弘法大師・空海に託された。

その後、大師は伽藍(がらん)の造営に取り組み、講堂には密教の主尊である大日如来を中心に21の仏像を安置し、立体曼陀羅(まんだら)の世界を表現し、東寺の近くに日本初の私立学校・綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立し、庶民に教育の機会を提供した。

東寺長者の飛鷹全隆師

東寺長者の飛鷹(ひだか)全隆(ぜんりゅう)師によると、弘法大師は唐の長安にある青龍寺で師となる密教第七祖の恵果(けいか)に出会い、すべての命に個性があり平等であるとの宇宙の真理を習得、それを諸仏の絵に表現したのが曼陀羅である。

日本で真言密教の教理を完成させた弘法大師は承和2(835)年、高野山で入定(にゅうじょう)した。入定とは「禅定(ぜんじょう)に入る」という意味で、ことに真言宗では空海が生死の境を超えて、弥勒菩薩(みろくぼさつ)出世の時まで衆生(しゅじょう)救済のために永遠の瞑想(めいそう)に入り、現在も高野山奥之院の弘法大師御廟で入定しているとされる。これが「大師信仰」で、延喜21(921)年に醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(しごう)が贈られたのを機に生まれ高野聖(こうやひじり)らの活動で、空海は「お大師さま」として人々の信仰を集めるようになる。

国宝「講堂立体曼荼羅・五菩薩像」=東寺講堂

日本宗教史における空海の役割を考えると、天皇の帰依を得て後七日御修法(ごしちにちみしほ)のように仏教が朝廷の宗教儀礼に組み込まれたことが大きい。空海が2年、滞在した当時の長安は世界一の国際都市で、交易を通じてキリスト教やイスラム教、ゾロアスター教などアジアの宗教が集まっていた。空海が目指したのは密教を超えた普遍宗教で、そのため中国の道教や儒教をはじめ渡来の宗教施設を訪ね、学び、吸収している。日本古来の神道を取り入れたのも当然であった。

空海の帰国後、唐の皇帝武宗は道教に傾倒して仏教を迫害するようになり、密教は衰退してしまう。残ったのは、山林に逃れ、自給自足してきた禅宗と念仏を唱える浄土宗で、中国密教は日本に渡ることでその命脈を保てた。

今年は真言宗では空海生誕1250年だが、浄土真宗では親鸞生誕850年。仏教の最後に現れた大乗仏教の最終ランナーが密教で、チベットと中国に伝わり、後者が空海を介して日本に届き、教義として社会的宗教として定着した。

大師信仰が庶民にも浸透していくのに活躍したのが高野聖で、興味深いことに彼らは念仏を唱えながら弘法大師の功徳を説いた。救いの実感、仏恩を感じるのに、それが最も効果的だったからである。

浄土真宗は信者数では日本最大の宗派で、「南無阿弥陀仏」を広めた第一の功労は時宗の一遍とされる。伊予の水軍、河野氏の生まれで、武家を継がず浄土宗に帰依し、宇佐神宮の八幡信仰や熊野信仰も吸収しながら、遊行(ゆぎょう)の途上で自然に生まれた「踊り念仏」が一世を風靡(ふうび)した。時宗は鎌倉仏教の最終ランナーで、密教と同じくそれまでのすべての教えを集約する役割があるのかもしれない。ちなみに、空海も一遍も四国の生まれである。

一般的に、釈迦(しゃか)の教えに最も近いのが禅宗で、最も遠いのが浄土真宗と言われる。しかし、釈迦は親鸞と同じことを言っている。釈迦がいなくなった後、どう生きればいいのかと聞く弟子に、釈迦は「自燈明、法燈明」と答えた。自分自身を灯(ともしび)とし、宇宙の真理に従えとの意味。「私のように生きなさい」と言ったのではない。

親鸞の弟子唯円(ゆいえん)が書いた『歎異抄(たんにしょう)』によると、どうしても阿弥陀如来の救いが信じられないと言う唯円に親鸞は、「私もそうだ」と答えている。それは、自分で探求し、体験し、それぞれの境地にたどり着くしかないからだ。

明治以降の近代化を急ぐ日本で、親鸞の教えが若者の心を捉えたのは、近代的自我の確立と軌を一にしていたからである。

奈良・平安時代の鎮護国家の仏教が、江戸時代に政治に組み込まれて「寺の宗教」になり、明治になって「私の宗教」として定着して今日に至る。それが空海から親鸞への日本仏教の歩みと言えよう。

(多田則明)

spot_img
Google Translate »