熊野水軍と補陀落信仰の地
成仏願う勢子舟の極彩色
熊野灘に臨む和歌山県太地町は、400年の歴史を持つ捕鯨の町だ。今年の小型鯨の追い込み漁が9月に始まり、初の水揚げがあった太地町を訪ねた。
JR紀勢本線の太地駅からまず太地町立「くじらの博物館」へ向かう。途中、大きな鯨のモニュメントが迎えてくれた。博物館前のくじら浜公園には、昭和46年に竣工(しゅんこう)し平成19年に引退した捕鯨船「第一京丸」と銛(もり)を持った漁師の像があった。
博物館は、本館とクジラショーのプール、小型鯨にエサを与えたりする「触れ合いプール」、水族館「マリナリュウム」からなる。本館は3フロアで鯨と熊野の捕鯨文化について展示解説。中央吹き抜けの空間には各種鯨の骨格標本、セミクジラと古式捕鯨の勢子舟の模型が展示されている。
江戸時代の1600年代から明治時代まで続いた太地の古式捕鯨は、船団を組んで深さ45㍍から60㍍にも及ぶ網で鯨を取り囲み、銛で仕留めるという、大掛かりで勇壮な漁法。1階では、その様子をジオラマで展示解説している。
漁は500人を超える人々が役割を分担した。岬の先端で鯨を見張り到来を知らせ漁の状況など情報伝達を行う山見(やまみ)、鯨に網を掛ける網舟、銛を打つ羽差(はざし)、仕留めた鯨を運搬する持双舟(もっそうぶね)などがチームを組んで行った。源平合戦でも活躍した熊野水軍伝来の造船や操船の技術、海に関する豊富な知識があってこそできた漁である。
鯨を網に追い込み、銛で仕留める勢子舟は、8丁の櫓(ろ)で漕(こ)ぐ高速船。漕ぎ手と羽差など合わせて15人が乗り込んだ。博物館3階の銛など古式捕鯨用具を展示する中に勢子舟の模型も展示されている。それが実に興味深い。どの船も漁船には不似合いなくらい、美しい極彩色で彩色されているのである。
「沖合」という指揮者の乗る一番船は「桐(きり)に鳳凰」、二番船は「割菊」、三番船は「松竹梅」と、意匠もランク付けがあるようだが、いずれも美しい彩色だ。巨大な海の王者に挑む漁師たちの晴れ舞台を飾るためとも、断末魔の苦しみの中で息絶えようとする鯨に最後に美しいものを見せて成仏させるためとも言われる。熊野は、荒々しい水軍の故郷であるとともに、熊野信仰や、海のかなたの浄土を信ずる補陀落(ふだらく)信仰の地でもある。そんな精神風土が、勇壮さと優しさを生んだのかもしれない。
博物館を出て漁港を経由し燈明崎(とうみょうざき)へ向かった。漁港の東側に突き出た岬で、椎(しい)の木の林を抜けたその先に、古式捕鯨の山見台や狼煙(のろし)台の跡があった。山見はここから鯨を発見すると、狼煙、あるいは旗、ほら貝などで船団に伝えた。
正面は熊野灘、左手は漁港のある湾、その向こうに熊野の山並みが遠望できる。沖の鯨を見張り湾内の船団に伝えるには絶好のポイントであることは、素人目にもよく理解できた。
(特別編集委員・藤橋進)