長谷川等伯生んだ「能登の小京都」 「能登畠山氏とゆかりの文化」展

石川県七尾美術館 連歌3巻が一堂に

「能登畠山氏とゆかりの文化」展パンフレット

桃山画壇の巨匠長谷川等伯の出身地、七尾市の石川県七尾美術館で、「能登畠山氏とゆかりの文化」展が開かれている(10月29日まで)。

能登畠山氏は、室町幕府で要職を歴任した畠山氏の分家筋にあたる守護大名。嘉慶(かけい)2(1388)年に畠山基国が能登守護に任じられたのがその始まりと言われ、7代目当主、義総(1491~1545年)の頃、全盛期を築いた。居城を構えた七尾も整備され、北陸随一の城下町として繁栄した。

時あたかも応仁・文明の乱で京都から戦乱を避けて、多数の文化人が畠山氏の庇護ひご)を求め、七尾に移り住んだ。彼らによって七尾には京都の雅(みやび)な文化が伝わり、能登の小京都とも言うべき、文化空間が生まれた。

今展は、そのような七尾に栄えた能登畠山氏の文化の遺産を通して、その在りし日の姿をしのびながら、国宝「松林図屏風」(東京国立博物館蔵)などの傑作を遺(のこ)した絵師、長谷川等伯誕生の背景を探ろうというものだ。

七尾の文化的な繁栄を最も端的に示すのは、文芸活動を重視した畠山氏ゆかりの本「連歌百韻」3巻。文明15(1483)年、第3代義統の時に挙行された「賦何船連歌(ふすなにふねれんが)」、第7代義総の時代、大永3(1523)年の「賦何路連歌(ふすなにみちれんが)」、同5年の「賦何人連歌(ふすなにひとれんが)」で、今展では所有者の異なる3巻が一堂に展示されている。

「賦何船連歌」では、義統自身が最初の句(発句(ほっく))を詠み、京都から招かれた文化人や畠山氏の家臣14人が名を連ねる。「賦何路連歌」では、連歌師・宗祇(そうぎ)の弟子、宗碩(そうせき)が発句を詠み、畠山氏の家臣など18人が連衆(れんじゅ)を務める。「賦何人連歌」では義総が参加し14句を詠んでいる。3巻とも雲が棚引くように漉(す)かれた美しい料紙に優美な文字で書かれている。城内の館で連歌に打ち興じる人々の姿が浮かんでくるようだ。

天文8(1539)年に生まれた等伯が、絵師として大成したのも、七尾に根付いたこのような文化的な土壌があったためとみられる。

等伯の生家は畠山氏の家臣奥村家で、後に七尾城下の染め物と絵仏師を家業とする長谷川家の養子となる。その幼少期は、7代義総が治める畠山氏の全盛時代だった。

今展では、等伯筆の「愛宕権現図」「海棠に雀図」などが展示されている。「海棠に雀図」(個人蔵)は、海棠(かいどう)の枝の上で親雀(すずめ)が虫を口にくわえ、子雀たちに与えようとしている実に愛らしい作品。今展で見逃せない一幅だ。

(特別編集委員・藤橋進)

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