空海を題材にした2人の小説
『空海の風景』と『曼陀羅の人』
当時の長安は世界一の国際都市
今年は司馬遼太郎の生誕100年で、大阪外国語大学(現在の大阪大学外国語学部)で1年下だった陳舜臣は来年が生誕100年になる。司馬は蒙古語学科、陳は印度語学科を卒業。2人は学生時代からの親友で、司馬の『街道をゆく』の「台湾紀行」は台湾が第2の故郷の陳の勧めで実現し、陳は司馬を案内、当時の李登輝総統にも会うことができた。
陳は司馬の中国の旅にも同行し、福建省の山中の少数民族、ショー族の村を訪ねている。大歓迎を受けたが、お返しするものが何もない。すると、やわら陳が筆を執り、見事な七言絶句の漢詩を書いたので、司馬は目を見張ったという。両親が台湾から移住し、神戸生まれの陳だが、家の中では中国語で、漢字文化の中で育っていた。
1984年に、空海が804年に漂着した中国の福州(赤岸鎮)から西安(青龍寺)まで2400㌔を踏破した高野山清凉院住職の静慈圓(しずかじえん)氏は、「空海研究をする中で気付いたのは、空海が漢字文化圏に生きていたことだ」と語っている。その意味で、陳は空海を描くのにふさわしい作家と言えよう。
今年生誕1250年の空海について、司馬は『空海の風景』、陳は『曼陀羅の人』を書いた。宗教学者の山折哲雄氏は近著『わが忘れえぬ人びと』(中央公論新社)で、祇園(ぎおん)で一緒に飲んだ梅原猛が司馬に、「風景」ぐらいのことで空海密教の本領がわかってたまるものかと言い、大げんかになったという話を紹介している。
『空海の風景』は『街道をゆく』と同じような紀行文で、宗教的深みには踏み込んでいない。一方、『曼陀羅の人』は、空海が唐に滞在した2年間の出来事を、フィクションを交えリアルに描いている。
両書に共通しているのは、空海は日本にいる間にほぼ密教と中国語はマスターし、密教の正統な継承者としての灌頂(かんじょう)を受け、経典や法具を持ち帰るために唐に渡ったという説で、それは史実に近いとされる。
そのため空海は留学僧(るがくそう)として、本来なら20年滞在しなければいけないのを2年で帰国し、20年分の費用を経典の筆写や曼陀羅(まんだら)、法具の製作などに投じた。それでも足りない灌頂の儀式には、多くの支持者から布施が寄せられたのにも、空海の実力と人間的魅力をうかがわせる。
当時の長安は世界一の国際都市で、交易を通じて景教(キリスト教ネストリウス派)やイスラム教、ゾロアスター教、マニ教などアジアの宗教が集まっていた。密教そのものが大乗仏教の最後に現れ、インド古来のバラモン教やヒンズー教も取り込んだが、空海が目指したのは密教を超えた地球規模の普遍宗教で、そのため道教や儒教をはじめ渡来の宗教施設を訪ね、学び、吸収していく様子が面白く描かれている。インド、中国、日本の広い教養を身に付けた陳ならではの想像力だろう。
空海の関心は宗教にとどまらず、医療や土木建築、教育などにも広がり、それが帰国後の満濃池(まんのういけ)の修築や綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)の創設などにつながる。また、唐の密教は皇帝を精神的に支えていたことから、空海は唐の政治にも詳しくなり、そこから日本での政治的振る舞いを考え、それが帰国後の都の東寺と、修行の場としての高野山に結実した。日本的な神仏習合の宗教は最澄の天台宗と空海の真言宗によって完成したと言えよう。
空海の留学当時、盛んだった密教は皇帝武宗の廃仏で滅んでしまう。中国の皇帝が宗教に期待したのは国と王を守る呪術的な修法で、道教に傾倒した武宗はそれ以外の宗教を弾圧した。
幸運にもその直前、密教は長安青龍寺の恵果(けいか)から空海に灌頂によって法統が継承され、日本で体系化された。空海の真言密教は今も高野山で生き、成長し続けており、近年そこには密教を学ぶ中国人の姿もある。
(高嶋 久)