#15 「二度と犠牲者を出さない」検察は不起訴処分、後藤さんの闘いが始まった【後藤さんの闘い・解放から入院へ⑤】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

20年ぶりの解放感 病院ベットの上で味わう

両膝の痛み、栄養失調、脱水症状などで都内の病院に緊急入院となった後藤徹さんが車椅子で、診察室から病棟405号室に移ったのは2月11日午前1時40分(看護記録による)。歩けなかったので、ベッドの傍らにはポータブルトイレが用意された。

緊急入院となれば、慣れない環境や体調のことで、不安な夜を過ごすのが普通だろう。しかし、後藤さんは違っていた。とにかく、解放されたことが「本当にうれしかった」のだ。

後藤さんの1回目の監禁は1987年10月。この時は1カ月弱で自力脱出に成功する。2回目は1995年9月11日からだった。この間、後藤さんは「いつ再び監禁されるかという不安で、気の休まる日はなかった」という。

道路脇に停車しているワゴン車を見れば、<自分を拉致するために人が飛び出してくるのではないか>と身構えてしまう。その恐怖心から、1987年春に入社したばかりだった大成建設からの退社を余儀なくされてしまった。この精神的な苦痛は、拉致監禁の被害者にしか理解できないものだろう。

1回目の監禁から2回目までの8年間、後藤さんは、体が自由の身でも、心は晴れなかった。いつも厚い雲に覆われているような陰鬱な日々を過ごしていたのだ。12年5カ月の監禁から解放された最初の夜は、病院のベッドの上となったが、心は「やっと自由になれた!」と、20年ぶりの解放感を心底から味わっていた。

入院から3日目の2月13日。1人のルポライターが入院中の後藤さんを訪れた。統一教会職員に伴われて取材に駆け付けたのは、拉致監禁によって統一教会を脱会後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ女性らの証言をルポルタージュした「書かれざる『宗教監禁』の恐怖と悲劇」(月刊「現代」04年11月号所載)を発表し、拉致監禁による脱会説得とその犯罪性を世に問うた米本和広さんだ。

当時、統一教会信者への拉致監禁問題を題材にした単行本出版のための取材を続けていた米本さんは、後藤さん解放の情報を得て、いち早く病院に駆け付けたが、そこで見た後藤さんの体に強烈な衝撃を受けた。その体は「骨と皮、そこに萎えた筋肉がくっついているという感じだった」と証言する。

米本さんは、下着一枚になるよう後藤さんに求めると、写真を撮った。

やせ衰えた体や、胃腸が常食を受け付けず入院4日目からしばらく続いた下痢のほか、後藤さんが超長期間、過酷な状況下にあったことを示す体の異常は幾つかある。なかなか改善しなかった「鉄欠乏性貧血」もその一つ。男性の場合、消化管に出血源があったり、食べてもうまく消化吸収できなかったりして起こる病気だが、胃カメラ検査では出血源は発見されなかった。

「胃カメラで、胃の粘膜が萎縮しているのが見られた。鉄欠乏になったのは、長期にわたる低栄養とストレスのためか、胃の粘膜が萎縮して、食べてもそれを消化吸収する胃腸の機能が低下したことが原因と考えられる」と、診察した内科医は語っている。このため、後藤さんは治療とリハビリだけで、50日間の入院生活を送ることになった。

監禁中、棄教を強要する家族や宮村峻氏らに対して、後藤さんは「犯罪だ」「人権侵害だ」と叫び続けた。しかし、その度に返ってくるのは「犯罪じゃない。保護説得だ」という言葉と罵声だった。

度重なる暴力、さらには食事制裁で栄養失調で骨と皮だけの体にし、揚げ句の果ては無一文で放り出す行為と、「保護説得」という言葉の、どこに整合性があるというのだろうか。

不起訴に新たな決意 「二度と犠牲者出したくない」

後藤徹さんの鉄欠乏性貧血は退院後も続いた。

監禁場所から無一文のまま放り出された上に、職を探すにも12年5カ月という空白期間のために、まともな履歴書は書けなかった。

アパートを契約するためには、給与証明が必要だ。「長い間、社会生活していなかったので、社会的な信用がゼロになってしまった」と愕然とした。一方で、ありがたいことに拾う神もいた。ある会社の社長に、拉致監禁された事情を包み隠さず話すと「(長期間耐え抜いた)精神力は見上げたものだ。ぜひ、うちの会社で活躍してほしい」と言われて雇ってもらえる幸運にも恵まれたからだ。

解放後、新たな人の輪もできた。その温かな絆に励まされながら、株式会社タップの宮村峻社長、新津福音キリスト教会の松永堡智牧師、そして家族4人を「逮捕監禁致傷」「強要未遂」の罪で、荻窪警察署(東京)に刑事告訴した。2008年6月のことだ。宮村、松永両氏を告訴することに躊躇はなかったが、母や兄妹まで訴えるのは苦渋の決断だった。

宮村氏らに「これしか方法がない」と教唆されたにせよ、家族は拉致監禁を直接実行している。「家族を犯罪者にすることには葛藤があったが、私の人権を侵害したこと、犯罪行為を行ったことを認め、謝罪してもらわなければ、家族の和解もあり得ない」という思いからだった。

だが、後藤さんは早くから捜査当局の“壁”を感じていた。入院して間もなく、後藤さんに長期間の栄養失調があったとみられたことから、病院側は最寄りの警察署に、後藤さんの件を通報していた。ところが、警察はあまり関心を示さなかったという。

退院後、後藤さんは警察の事情聴取を受けた。しかし、警察署員からは「(告訴の受理は)家族がかかわっているので簡単ではない」と言われた。告訴状を提出した荻窪警察署からは、しばらくなしのつぶてだった。

監禁による強制棄教は、信者の擁護者が誰1人いない状況で行われる。しかも、棄教を迫った側は、亡くなった父親を除くと宮村、松永両氏そして家族を合わせて6人。しかも出入りした元信者も数多く、後藤さんは、初めから多勢に無勢である。

<早く逮捕して家宅捜索すれば、証拠が出てくるかもしれない。このまま(時間だけが過ぎていって、その間に)口裏合わせをやられたら、真実が明らかにならない>。警察の事情聴取は10回を数えたが、焦りは募るばかりだった。

結局、告訴状は受理されたが、逮捕者は1人も出ないまま09年2月、被疑者は東京地検に書類送検となった。「この事案だったら、身柄を付けて送検するのが普通だ。(捜査当局の)腰が引けているのを感じる」(後藤さんの代理人弁護士)。

東京地検が被疑者6人を、嫌疑不十分を理由に不起訴処分としたのは、約10カ月後の09年12月9日。それまでの取り調べの様子から、ある程度、予想されたことではあった。とはいえ、それが現実となると「大変にショックだった。私のケースが不起訴になるのでは、統一教会信者の拉致監禁被害はますます増える恐れがある」という。怒りが込み上げてくると同時に、後藤さんは背筋が寒くなるのを覚えた。

昨年2月、強制棄教・改宗をなくすことを目的とした拉致監禁の被害者らの市民団体「拉致監禁をなくす会」(代表・小出浩久氏=医師)が立ち上がった。後藤さんが今、同会の副代表として活動するのは「貴重な30代を監禁されて過ごした私のような犠牲者を二度と出してはいけない」と切実に思うからだ。

検察の不起訴処分によって、この思いはさらに強くなった。拉致監禁をなくすための後藤さんの戦いは、今、始まったばかりだ。

「宗教の自由」取材班


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