本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。
新鮮に映った通行人 解放感かみしめ進む
後藤さんにとって、12年ぶりに外の空気を吸って自分の足で道を歩くことは、とても新鮮な感覚だった。長年にわたって閉ざされた空間で、同じ人の顔だけを見て過ごしてきたので、全く見知らぬ人が行き交っていることまでが目新しいものに映った。
監禁下の室内で針を刺すような視線もなければ、心をずたずたにする叱責もない。ただ見知らぬ人が自分のそばを通り抜けて行く。当たり前のたったそれだけのことで<自由になったんだ>という解放感をひしひしと感じた。
監禁から脱出した信者は、たいてい再び監禁されることへの恐れを抱き、その後たまたま誰かの視線を感じたという、ちょっとしたことにも怯えを持って歳月を過ごす場合が少なくない。
後藤さんは2回、拉致監禁された。1987(昭和62)年の1回目の監禁から脱出した時は、そうした怯えを持った日々を過ごした。<また拉致監禁されるかも>という恐怖が、常に頭から離れなかった。
だが今回は、ついに家族が後藤さんを抱えきれなくなって、向こうから放り出した。「もうこれで二度と監禁されることはないだろう」という安心感と解放感があった。
その意味では、最初の拉致監禁から数えると「20年ぶりの解放感」(後藤さん)に浸り、それをかみしめながら歩いていた。
<早く行かないといけない>と急ぎ足だったが、心の一方ではスキップしているような弾む気持ちもあったという。
途中でラーメン屋や定食屋の看板が見えるたびに<せっかく出たのだから、腹いっぱい食べたい>と思ったりしたが、所持金がなかった。ただ東京都渋谷区松涛という住所だけが頭にあった。とにかく、まず統一教会本部に行ってからだ、と思って先に進んだ。
全身の筋肉は削げ落ちていた。超長期間にわたって一室に閉じ込められていたためだが、脱出したり、助けが来たときのため、備えは怠らなかった。
いざというときに素早く逃げられるよう、毎日欠かさず体を動かした。スクワットと腕立て伏せ、3分ほどの足踏みなど、1日に15分ぐらいは運動を続けていた。
だから、少しは歩けるはず、と自信があった。監禁現場の荻窪3丁目から杉並区役所の前を過ぎ、青梅街道と山手通りが交差する東京メトロの中野坂上駅(中野区)までの5㌔ほどの距離は、わりと速いペースで歩いた。
山手通りを右に折れて少し進むと、左手側に東京・西新宿にある東京都庁や林立する高層ビル群が見えた。<久しぶりの新宿だ。やっと帰ってきたんだ>と懐かしさが込み上げてきた。
だが、長い時間、長い距離を歩いていない足には、その負担は厳しく重かった。新宿区から渋谷区に入ったあたりから、足が痛みだした。速足で進んでいたペースもだんだんと落ち、ついにノロノロとした歩みになった。
激痛でまともに歩けず 「何としても本部へ…」
渋谷区松涛を目指してひたすら歩き続けた。のどに渇きを覚え、道端にある自動販売機を見るたびに、後藤さんの体は飲み物を欲した。缶ジュースを買いたくて小銭が落ちていないか確かめたりもした。
一方で、トイレにも行きたくなった。前に進みながらトイレを探し、ちょうど、山手通り沿いにある公衆トイレを見つけた。用を足すと、再び襲ってくる足の痛みに耐えながら、ゆっくりゆっくり目的地に向かった。
夕方の4時ごろ放り出されたが、もう辺りがすっかり暗くなっていた。<このペースで間に合うのか>と思いながら、少しずつ前進した。
だが、京王線の初台駅付近からは、足の痛みがどんどん酷くなってきた。足を一歩前に出すごとに、両膝と足の筋肉に痛みが走り、膝ががくがくしてきた。
当初のスキップしているような気分で早歩きしていたときに比べると、ほとんど前に進めなくなっていた。
車社会に慣れ切って、歩くことの少なくなった昨今、荻窪から渋谷までの10㌔余りを歩き通すのは、健康な人でも相当な負担となる。まして12年5カ月もマンションの一室に閉じ込められていた人間の膝が、歩行に耐えられなくなるのは時間の問題だった、といってもいい。
いよいよ激痛に耐え切れなくなり、手を膝に添えてかがむような姿勢でしか歩けなくなった。それは歩くというより、かろうじて足を前に出しているようなものだった。
立っているのさえつらい中、工事現場の所で落ちていた長い棒が目に入った。<ちょうどいい>と思い、その棒を拾って杖代わりにして体を支えながら歩いた。
小田急線の代々木八幡駅を通り過ぎると、歩道橋が見えた。その階段を上って向こう側に行き、また階段を下りる。健常者ならばいともたやすいその行動も、歩くのすらままならない今の後藤さんにとっては、過酷な障壁がそびえているように映った。
階段を使わないで済むよう<どこかに渡れる信号がないか>と辺りを見渡したが、見つからない。
その際、ふと歩道橋の下に目をやると、ボロボロの乳母車が見えた。<これを歩行器のように使えば、少しは歩きやすくなるかもしれない>と、一瞬考えた。しかし、誰のものか分からないからと、そのままにしておいた。
歩道橋の階段を一段一段とつかんだ手すりにもたれかかるように何とか上り切り、向こう側に下りるのも手すりを頼りにした。もう、息も絶え絶えだった。
<何としても本部へ行かなくては>という思いだけが、後藤さんを支え動かす原動力だった。
女性信者に出会う“奇蹟” 行き倒れ覚悟のあと
荻窪方面から青梅街道を東に歩き、中野坂上で山手通りを南下して渋谷区に入り、松涛1丁目にある統一教会の本部に行く場合、神山歩道橋を過ぎたあたりで、側道を左に入るのが近道だ。
しかし、交番で書いてもらった渋谷までの手書きの簡略した地図しか持っていない後藤徹さんがその道順を知る由もなく、いつしかそこを通り過ぎてしまっていた。
渋谷区に入ってから痛み始めた両膝はさらに悪化し、足を一歩動かすだけで激痛が走る。
すでに、杖代わりの棒に頼るだけでは歩けなくなった後藤さんは、老人のように背中を丸めて、ひざに手を添えてゆっくりゆっくり歩くのが精いっぱいだった。時折、擦れ違う通行人は不審そうな目を向けるだけで、「どうしたのですか」と気遣ってくれる人はいなかった。
<3時間くらいで、松涛本部に着けるだろう、と考えたのは甘かった>との思いがわいてきたが、行くあては統一教会の本部しかない。一銭も持たされずに放り出されたのだから、<はってでも前に進むしかない。殉教してもいい>と、後藤さんは覚悟を決めた。杖にしがみ付くようにして体を支え、ゆっくり前に進んでは止まり、またゆっくりと進んだ。
だが、ある交差点に差し掛かったところで、ついにしゃがみ込んでしまった。膝の痛みは限界を超え、もう一歩も歩けなくなった。
雪が降った前日とは打って変わって晴天だったとはいえ、2月の夜は冷え込む。監禁中、暖房を切った部屋の寒さをしのぐために何枚も重ね着をしていたことで、寒さはそれほど感じなかった。それでも<このまま行き倒れになるかも>という不安がよぎった。
ふと電柱を見ると、「松涛」の住所表示が目に入った。後藤さんは、そこがどこだったのか覚えていなかったが、のちにある女性の証言によって特定された。
そこは「松涛2丁目」の交差点だった。山手通りから、ここで左に入って、さらに東急百貨店本店の角を左折して真っすぐ進めば、道路左にある統一教会本部に行き着く。普通の人の足で15分ほどで行ける距離だ。
<とうとう松涛まで来たのか>と、少し元気が出てきた。とにかく、あとは通行人に道を尋ねるしかない。しかし、破れたセーターとよれよれのジャージーのズボンに革靴という浮浪者のような姿である。声を掛けた人に嫌がられるのは分かっていたが、もう構っていられなかった。
ちょうど通りがかった男性がいた。丁寧な口調で「すみません」と声を掛け「この近くに、世界基督教統一神霊協会(統一教会)の本部があると思うのですが、どちらでしょうか」と尋ねた。
「この近くに住んでいるけど、そんなのはないねえ」とだけ言って、50代と思われるその男性は、気に留めるでもなく去っていった。12年を超える時の流れの中で<教会本部がなくなってしまったのだろうか>と不安な気持ちにもなった。
しばらくすると、東急百貨店の方から、一人の若い女性が近づいてきた。「すみません」と、再び声を掛け「統一教会の本部はどっちですか」と続けた。
すると、その女性は「えっ」と、少し驚いたような表情をした。そして「どうされるのですか」と、逆に質問をしてきた。
何と、女性は統一教会の信者だった。
連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い
関連記事
#11 「2008年2月」生活が苦しくなり無一文で放り出された【後藤さんの闘い・解放から入院へ①】
#12 「本部まであと15分なのに」激痛が走る膝、痛む筋肉【後藤さんの闘い・解放から入院へ②】