#11 「2008年2月」生活が苦しくなり無一文で放り出された【後藤さんの闘い・解放から入院へ①】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

無一文で放り出される 生活苦で追い出しか

「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」

監禁部屋の荻窪フラワーホーム804号室に兄らの怒声が響き渡った。2008年2月10日午後4時ごろのことだった。

新潟から東京に移るときに取り上げられた財布(金)や持ち物を返さないまま家から放り出そうとする家族。後藤さんは「12年も監禁しておいて何だ! 無一文で追い出すなんて酷いじゃないか」と争い、家族と揉(も)み合いになった。

その際、家具にぶつかるなどして手の甲や手首から出血し、着ていたセーターも脇の下の部分が破れた。

このときの血痕が付いたトレーナーや破れたセーターには、今でも生々しい跡がそのまま残っている。

度重なる食事制裁で体が驚くほど痩せ細り弱っていた後藤さんは、力では抵抗できなかった。取り囲んだ家族たちに担がれ、そのまま玄関から廊下に放り投げられた。「くつ、くつ」という兄の声がすると、拉致される前に履いていた革靴が投げつけられ、ドアをバタンと閉められた。

想像を絶する超長期間にわたる監禁と暴力、食事制裁などを受けても屈せず、信仰を失わなかった後藤さん。その信念の前に、どうにも扱えなくなった家族が、とうとう音を上げて放り出したのだ。

拉致がいきなり強引に行われたものなら、その後続いた監禁を中断して投げ出したのも、いきなりだった。後藤さんの意思や社会復帰への責任などお構いなしの一方的な行為だったが、ついに後藤さんは監禁下から解かれたのだ。

東京・保谷市(現在の西東京市)の実家で拉致されてから、実に12年5カ月の月日が過ぎていた。

世の中は大きく変わっていた。阪神大震災があった年に監禁された後藤さんが、放り出されて解放されたのは米国でバラク・オバマ氏による「チェンジ(変革)」の声が高まっていたころだった。

この間、日本の首相は長期政権の小泉純一郎氏を含めて7人に上る。まさに、一時代以上を家族や職業的脱会屋などからの罵倒と暴力が吹き荒れる無法状態の一室で忍耐して過ごしてきたのである。

なぜ、いきなり路頭に迷うことも構わずに放り出されたのか。

荻窪に来た当初から、後藤家では兄しか働いていなかった。このため「マンション代や生活費などの経済的な面で、監禁を継続することがかなり苦しくなりつつあるようだった」と後藤さんは見る。

解放される3カ月ほど前から「あんた、この部屋を維持するのにどれだけお金がかかっていると思うの」とヒステリックに迫る家族らの言葉に、逼迫(ひっぱく)感を感じたからだ。

12年ぶりに道を歩く マンション名をメモに残す

気象庁のデータでは、後藤さんが解放された日(2008年2月10日)の東京は、前日に降った雪の影響で朝まで積雪が観測され、最低気温は2度だった。後藤さんは、真冬の夕方に路頭に迷うことを承知の上で、所持金も持たないまま放り出されたのだ。

しかも、そのときダウンジャケットやコートは着ていなかった。肌着と長袖のポロシャツ、トレーナー2枚、家族との揉み合いで破れた物を含むセーター3枚の計7枚を厚着していた。下はジャージーと肌着2枚に革靴という格好だった。頭は自分ではさみで切った虎刈りの丸坊主で、その姿はほとんどホームレスのようであった。

家で過ごしていたまま放り出されたが、厚着していたのは後藤さんの監禁されていた部屋が酷(ひど)く寒かったためだ。

部屋にはエアコンがあり、本来ならこれをつければ室内でそれほど着込む必要はなかった。しかし、エアコンをつけようとすると、家族からの「おまえにそれをつける資格があるのか」と迫る刺すような視線を感じた。捨てられた生ゴミを拾って食べるだけでも非難される状況で「自分の部屋は寒いから暖房をつけたい」などと言えるはずもなかった。

だから、厚着でしのいでいたのだが、冬の路頭ではこのことが幸いした。それに、寒さより何よりも12年ぶりの解放によって自由意思で道を歩けたことが後藤さんには歓喜だった。

真っ先にやったのは、自分の監禁場所を確かめることである。放り出された8階の通路からエレベーターで1階に下りた。マンションを出ると、入り口には大きく「荻窪フラワーホーム」の表札があり、住所も分かった。

監禁されていたマンションを外から初めて眺めて<こういう所にいたのか>と心でつぶやいた。804号室の集合ポストを確かめると、「GOTO」の文字があった。

これらをしっかりメモしておくために、マンションの前にあった植木鉢から石を拾った。その石で、落ちていたチラシの裏に住所などを書き込んでポケットに入れた。

現在地は分かったが、12年以上も外とのつながりを断たれていたのである。頼りたい、かつての知人が今どこにいるかも分からなかった。

そこで、ここは東京・杉並区荻窪だから、渋谷区松涛にある統一教会本部に行けば、事情を聞いてくれるだろうと思いついた。そして、とにかく歩きだした。

マンションの前にある青梅街道の天沼陸橋信号を渡って東に進んだ。すぐに牛丼の「すき家」の看板が目につき、空腹を覚えた。さらに行くと、交番が見えた。監禁現場の荻窪フラワーホームから歩いて2、3分のところにある「成宗(なりむね)交番」だった。

つい先ほどまで監禁されていたことを訴えたら、市民の安全と生活とを守る警察は何か対処をしてくれるはず、と期待した後藤さんは、その交番に入った。

交番に駆け込んだが 不審者にしか見られず

12年余にわたる拉致監禁から解放された後、後藤さんが駆け込んだのはマンションの目と鼻の先にある交番だった。

「この近くの荻窪フラワーホームというマンションに監禁されていて、先ほど解放されました」

後藤さんの言葉に、交番に詰めていた警察官は最初「えっ?」と驚いた様子だった。「詳しくお話を聞きましょう」と応じ、後藤さんの話に耳を傾けた。

それが、統一教会の信仰を棄教させるために家族が拉致し監禁したという事の顛末を聞くと、警察官の態度が急に変わった。<不審者が来たのか>というように、訝しげにものを見る目になっていた。

確かに、着の身着のままに放り出された後藤さんの身なりからは、不格好で怪しげな人物に見えたのかもしれない。だが、予断を持っていなければ、ボロボロの服だからこそ監禁から抜け出してきたばかり、という話と実際は合っていたはずである。

いくら説明しても「そうですか」としか気のない返事を返すだけの警察官。「そうですかではなくて、監禁されていたんです!」と言っても「親が一緒だったんでしょ」「食べ物も食べてたんでしょ」と、話の腰を折るばかり。

まともに対応されない中で、後藤さんは<これはダメだ。まるで話にならない>と思わざるを得なかった。そこで、せめて電車賃ぐらいは借りたいと思い「それではお金を貸してください」と頼んだ。

すると、住所や身元、東京に知り合いはいないのか-などと聞かれた。「いや、だから12年も監禁されていたのだから頼るところはないし、住所も何も……」と言うしかなかった。

結局、身元不詳ということで、それも拒否された。

つい数分前まで、監禁されていた被害者で、その犯罪を訴えたのである。それを聞いた警察官が、まず事実の有無を確かめるために現場に急行すれば、訴えの実態を把握できたはずである。家族らを現行犯(現に罪を行い、又は現に罪を行い終わった者=刑事訴訟法212条)で逮捕することにつながったかもしれない。あるいは現場の物的証拠や実態などから、その犯罪性を認識できたはずである。

仮に、ボロボロの服装の少女が「監禁から逃げてきました」と泣きながら駆け込んで来たら、警察官の対応もおそらく違ったものになっただろう。

児童虐待の問題が今日、これだけ騒がれ、保護する義務を持った関係者の不作為や不熱心がこれだけ責められているのである。市民の安全を守るべき警察が、その職務を怠ったとしたら、初動捜査のミス、職務怠慢を批判されても仕方がない。交番の対応には強い疑念が残る。

結局、15分ほど交番でやり取りしたが、後藤さんがしてもらったことは、仕方なく目指すことにした渋谷方面への行き方を略図で書いてもらったことだけだった。

冬の日は暮れかかっていた。交番を出た後藤さんは<早く統一教会の本部に行かなければ、夜になってドアが閉まるかもしれない>と焦った。略図を頼りに青梅街道を渋谷へと急いだ。


連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い

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