本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。
少量の生米で生き抜く 生ゴミの人参の皮もかじった
後藤徹さんのハンスト30日間も壮絶な日々であったが、その後の約70日間も、言葉ではとても表現し尽くせない過酷な日々であった。少々の重湯と1日1㍑のスポーツドリンク(ポカリスエット)だけという日がずっと続いた。重湯は、生米を鍋で煮た白い上汁で、1回の食事時に直径7㌢深さ5㌢ほどの丸い小鉢に7分ぐらいの分量だけ。まさに、食事制裁だった。
最初は、ハンスト明けの体を思いやっての流動食だと受け止めた。だが、体が固形食でも大丈夫になり、もっと栄養を求めている段階に回復しても、ずっと流動食が続いた。後藤さんの食事だけは毎食、重湯の小鉢だけが目の前に出た。
小鉢を手に取り、5分ぐらいかけてそれをすすると、あっけなく食事は終わってしまう。
〈これでは死ぬんじゃないか、もう危ない〉と危機感を抱いた後藤さんは、台所の冷蔵庫の扉をそっと開け、そこからマヨネーズや調味料を抜き取りなめていた。ところが、その日も同じように冷蔵庫を開けて見ると、調味料がすべてどこかに隠されてしまっていた。
ある時は、捨てた生ゴミの中から、ニンジンの皮やキャベツの芯をそっと抜いて、がりがり口にした。家族の目に分からないようにしたつもりだったが、これも見つかった。それ以後、生ゴミも所在が分からないように隠された。
食事制裁で、後藤さんの意識は時に朦朧となり、体力的には極めてきつい状態が続いた。〈これはもう本当に危ない〉と思い、今度は炊飯前の水に浸した生米に目を付けた。見つからないように生米だけを取って、それをかじった。
毎日、炊飯前の時間にトイレに行って、手を洗うふりをして、そばにボールに浸してあった生米を抜いていった。なぜか、それは見つからなかった。コップに3㌢ほどの量を抜いて、毎日それを少しずつ食べて何とか生き延びたのである。
生米を抜くと、元の米の量にちょうど合った計量の水は、少し多めになる。家族は炊き上がったご飯をほお張りながら、「なんか水気が多いなあ」と不満、不審な顔を見せた。後藤さんは、平静を装いながらも、心の中で〈神様! ばれないようにしてください!〉と必死に祈っていた。
家族は「おかしいなあ」とぶつぶつ言いながら食べるのだが、この件だけは後藤さんのせいにすることはなかった。もし見つかれば、どんな制裁が待っているか知れたものではなく、後藤さんは気が気でなかった。
炊き上がりの水っぽいご飯が連日続き、家族は「この炊飯器は壊れた」と言って炊飯器を新調した。まるで、サスペンスドラマのようであるが、奇跡的な本当の話である。
それでも〈体はいつまでも持たない〉と思った後藤さんは、知恵をめぐらした。06年7月ごろ、兄に「私は脳みそに血が回らなくて何も考えられない。検証も何もできない。お願いだから、なんとかしてほしい」と訴えると、兄は渋々、食事を元に戻し始めた。
実は、その次の日に、米を取っているところを母親に見つかってしまった。もうクセになっていたのだが、ちょうど食事を戻し始めた時期だったのが幸いし、たわいもない行為として見過ごされたのである。
衰弱は解放まで続く 聞こえ始めた幻聴
マンションから追い出される形で“解放”された後藤さんに、救援の手が差し伸べられた時にまで、話が飛ぶ。後藤さんが入院直後、病院で量った体重は39㌔。医師が診るまでもなく栄養失調状態だったが、体力の消耗度という点では、2006年4月に行った30日ハンストの直後が最も激しかった。
しかし、その後も解放される一昨年(08年)2月までの2年近く、後藤さんはまともな食事を口にすることができなかった。
その上、何かにつけ揚げ足を取られて食事制裁に追い込まれるのではないか、という恐怖心が常に付きまとった。
その心身のストレスの中で、ハンスト後も体力は思ったほどは戻らなかった。ずっと40㌔前後の体重で栄養失調状態が続いていたとみられる。正確な体重を量るべくもなかったが、後藤さんの体は、このハンスト直後から変調を来し、幻聴らしきものが聞こえ始めた。何度も〈死ぬんじゃないか〉という危険を感じたのも、決して思い込みではなかった。
30日間のハンスト後、70日ほどして後藤さんは、食事を元に戻してくれるよう兄に頼んだ。兄は、他の家族に「もうそろそろ食事を元に戻してもいいのではないか」と促すと、兄嫁は「えー、信じられない!」と言って憮然とした表情になった。
そのやり取りを目の当たりにして、後藤さんは、このまま自分が死んだ場合、兄は殺人罪に問われることを恐れている。兄嫁の方は後藤さんが廃人になろうが構わない、と思っているに違いない、と感じた。
食事は少し元に戻され始めたが、結局、最後まで普通の食事には戻らなかった。やはり「自分の頭で検証しないやつは、まともに飯を食わせるわけにはいかん」というわけである。
それから約4カ月間は、重湯が三分粥に、三分粥が七分粥にと徐々に変わり、ご飯やおかずが出るようになったのはそのあとからだった。
それでも、朝はパン1枚に飲み物1杯、昼はご飯1杯、みそ汁1杯、小皿にのり4枚、漬け物と小魚少々、梅干しなど。夜は、ご飯1杯、みそ汁1杯、漬け物、小エビ、納豆といった内容だった。その後、解放されるまでの1年数カ月間、ずーっと同じ献立だった。
他の家族は普通の献立。それでも兄嫁は、後藤さんにだけ出されている粗末な食事を指して「ものすごく豪華な食事だ」などと皮肉を飛ばしたりした。量的に、とても体は持ちこたえられなかったが、何よりも、この粗末な献立を至極当然のように思っている家族との埋め難い深い溝を思った。つらい思い出である。
一方、安倍政権誕生をニュースが報じていた同年9月ころのこと。後藤さんがビデオデッキで見ていたビデオテープを、妹がいきなり持って行こうとした。奪われまいと取り合いになり、ビデオテープを妹に壊されてしまった。
兄嫁にも、テレビのアンテナケーブルを取り上げられてしまった。すでに後藤さんは、妹1人に対しても体力的に全く太刀打ちできなかった。兄嫁には、抵抗する気力すらわいてこなかったほど衰弱していた。
その日から、再びテレビもビデオも見ることができなくなった。兄嫁と妹は、後藤さんがテレビを見ていることも、気に入らなかったのである。
建物は宮村氏名義、土地は夫人ら 取引メーカーは取材拒否
改宗屋の宮村峻氏は、東京・杉並区荻窪で、企業や商店が屋外に出す広告看板やチラシの制作などを手掛ける株式会社タップを営んでいる。資本金1000万円、現在の従業員は3人ほど。以前は、宮村氏自らが脱会させた統一教会の元信者らを雇っていたが、今は定かではない。
宮村氏自身は、前に勤務していた同業種の会社で、PR広告の営業や制作などを行っていた。その時からの関係で、東証一部上場の住宅メーカー、積水ハウス(本社・大阪市北区)の仕事を受注。埼玉県南や横浜の住宅展示場の販促用のぼりや垂れ幕などの制作を請け負っている。年商約3700万円(平成20年8月期)で、最近ではこのうち積水ハウス関係の受注が半分以上を占めるとみられている。
こうした会社経営の一方で、宮村氏は、すでに平成元(1989)年には、荻窪フラワーホームに拉致監禁された女性に対し、脱会活動を行っていた。そして、少なくともこの23年間にわたり、父母を前面に立てて行ってきた統一教会員の拉致監禁に関与してきた中心人物と言っていい。これが人権蹂躙(じゅうりん)著しい反社会的活動であることは言うまでもない。
タップ社との取引関係にある積水ハウスは、こうした事実、宮村氏のもう一つの顔について承知しているのだろうか。同ハウス広報部への電話取材では「すぐにはお答えできない」という返事。3日後に「お尋ねの件に関しましては、一切取材に応じかねます。あしからずご了承ください」という一枚のファクスが届いた。取材拒否である。
拉致監禁の現場となった施設や牧師、脱会屋の居住宅は、JR荻窪駅周辺に集まっていることは、すでに書いてきた。
タップ社や宮村氏の自宅は、荻窪駅から徒歩15分ほどの所。環状8号線から1本入った、会社や個人の事務所と商店などが混在する道路沿いにある。バスや車、歩行者がひっきりなしに行き来する所で、タップ社の方は、注意していなければ見落として通り過ぎてしまう。そんな目立たない軽量鉄骨スレート造り2階建て建物の一角にある。
宮村氏所有のこの建物の中にはタップのほかに都議会議員の事務所や裏手に共同住宅が入っており、共同住宅は平成12(2000)年に新築されている。しかし、タップ社の隣の駐車場から建物の側面を見ると、窓枠などが雨水のせいで黒んでいて、建物の傷みも目立つ。向かいの家にいた家財職人らしい人が「何かご用ですか」と聞いてきた。「ここはどういう会社ですか」と尋ねると「よく知りません」とだけ答えてくれた。
この建物と隣接し奥まった所に宮村氏の自宅がある。軽量鉄骨造り亜鉛メッキ鋼板ぶきの2階建て。こぢんまりとした庭に松の木、周りに塀代わりの灌木(かんぼく)が植わっている。
複数の拉致監禁被害者は、宮村氏について「脱会説得をビジネスとして請け負っている」と証言している。明治大学法学部卒で、法律知識も一応はあり、信者の親に拉致、監禁の手ほどきをするのに〈自分は一切かかわりのない(立場)〉という指示をくどいほどに与えている。もちろん、報酬面の口裏合わせなど細工も怠りないだろう。
それだけに、夫人や親戚名義の土地、宮村氏名義の自宅などの建物をながめていると、後藤徹さんをはじめとして強制棄教を迫られた多くの教会関係者の悲痛な表情が思い出されて、暗澹(あんたん)たる気持ちに襲われるのであった。
連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い
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