#9 「このままでは本当に殺される」ハンスト抗議の末に【後藤さんの闘い・東京荻窪⑥】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

ついに抗議のハンスト 兄嫁に平手打ちされる

とうとう後藤さんは不惑の40歳になった。すでに監禁は8年に及んでいた。これまで何度も脱出を試みたが、その都度取り押さえられた。長期にわたる監禁による体力の衰えと力の行使に無力感を感じていた。そんな中で、ついに2004年4月に、21日間のハンガーストライキを決行したのである。

ハンスト中も、家族に「もう8年だぞ! 当時生まれた人間はもう8歳だ。こんなに閉じ込めて人権侵害だ!」「30代というのは人生で最も気力体力が充実している時だ。それを社会から隔絶された所に閉じ込められて、まるまる奪われたんだぞ。どうしてくれるんだ」と、激しく抗議を繰り返した。

民主主義国家の国民が持つ基本的権利の一つである選挙権の行使も、力ずくで奪われたままである。「いったい何回、選挙権を奪ったと思っているんだ!」「これを人権侵害と認識できないというのは、あんたらの考え方がよほど狂っている。何でそれが分からないのか。それこそ非常識じゃないか」「これは拷問だ!」とも追及した。

しかし、家族は後藤さんの糾弾に取り合わなかった。馬耳東風で、全く人の話を聞こうとしなかった。「自分の頭でよく考えろ」「性根の腐った人間に人権など無い」などと言って、逆に棄教を迫ってくる始末だった。

特に兄嫁は、ひどかった。後藤さんのハンストを激しく非難してきた。興奮して後藤さんの顔を平手打ちで思いっきり叩いた。兄嫁は女性にしては筋肉質で体格が良かった。多い時で、日に4~5回、それも力いっぱい叩かれたのではたまらない。そのたびに衰弱していた後藤さんの上体は左右に大きく揺れた。叩かれた顔はあごを上下するだけで痛みが走った。兄嫁の方も手のひらを痛めたらしく、右手親指の付け根にずっと湿布を張っていた。

ある時は、何を思ったのか、目をつり上げて憎々しげに「目を覚ましなさい」と言うなり、ボウルの中に入れた冷蔵庫の角氷を、後藤さんの背中にがらがらと流し込んだりした。ハンストも10日目を過ぎると、体はフラフラになった。身動きするのも大儀になり、横になることが多くなった。トイレに行くのもおっくうで、その中で何度か倒れそうになり、立って用を足すことも難儀だった。21日間のハンストはなんとかやり終えたが、兄嫁の平手打ちはその後も続いた。

ハンストが終わってからのある時、後藤さんが座禅をしている様子を揶揄して絵に描いた兄嫁は、その似顔絵の紙に「真理を追求する男、私の名は徹」という文言を添えた。そして、食事の時に、後藤さんの目の前に電気スタンドを持ってくると、それに似顔絵を張り付けて「これを見ながら食べなさい」と命令したりした。

断食で体力気力を消耗し尽くした後藤さんは、あとは気力も出ず、抵抗もできない感じになっていた。怒る力もなく、その紙を黙って引き破り、ゴミ箱にいったんは捨てた。

それが食事が終わってから考え直した。「拉致監禁されていたことの証拠品になるかもしれない」と思い、ゴミ箱から切れ端を取り出し、全部をつなぎ合わせてセロテープで張り合わせた。そして、ずっと隠し持っていた。

だが、残念なことに、最後にこの似顔絵を持って部屋を出ることができなかったのである。

2回目は普通食まで7カ月 ハンスト後に食事制裁

ハンストの21日間が終わり、体がやせ細ってしまった。その後、重湯からお粥、お粥から普通のご飯へと戻していく。こうして約1カ月後には、普通の食事ができるまでになったが、元の体重に戻ったと感じたのは約1年後だった。

インド独立運動の父、マハトマ・ガンジーは国内抗争が激化した時に、抗議のためのハンガーストライキを何度も行った。日本人にもよく知られるガンジーだが、やせ衰えているイメージは、ハンスト直後に撮られた写真が流布されているからであろう。

相手の有無を言わさない圧倒的な力によって、当然の権利である自由が不法、不当に奪われている場合、それに抗議するいろいろな手を尽くし、それでも打開できないときに取る生命懸け最後の手段がハンガーストライキである。ガンジーは、ハンストの苦しみを国民が分かち合い、団結するのを願って、国民の前でハンストを行った。

後藤さんの場合も、家族や脱会屋の手であまりに理不尽な環境に押し込められていることに抗議するためだった。それとともに、まったくの孤立、孤独の闘いの中で、自らの境遇の意味を問い、信じる神と一問一答したいという気持ちもあった。そういう意味でも必死のハンストだった。

後藤さんは1年をかけて体力を回復させたが、再び翌2005年4月に21日間のハンストを決行した。

この時のハンストの直接的なきっかけは家族との言い争いだった。ある時、後藤さんが、語学の勉強をするのにその教材を家族に要求したところ、兄嫁と妹が拒否し、激しい言い合いになった。

後藤さんは憤懣やるかたなかった。調理用の金属製ボウル二つを叩き合わせたり、ボウルで冷蔵庫などを叩き回ったが、家族は一切無視し続けた。そのため、超長期にわたる監禁への強い抗議の意味も込めて、2回目のハンストに突入したのである。

家族は「何だ、またやるのか」と、驚くやら、怒りまくるやらした。

そして、21日間の期限が過ぎハンストが明けた。しかし今度は、家族が後藤さんに粗末な食事しか出さなかった。

後藤さんが、兄嫁に「1回目のときは1カ月で普通食に戻したのに、今回は何でこんなに長いのか? 兵糧攻めか? 制裁のつもりか?」と抗議したが、無視された。「いつ普通食に戻すんだ?」と聞いても、兄嫁は「それは分からない」ととぼけるばかり。

ハンスト後の体は相当に衰弱している。体重も10㌔以上減る。すぐに固形物は食べられない。そのため、食事にはよほど気を使わなければならない。

体が受け付けるものを徐々に口にし、体力の回復状態に応じて、食事の量や質を上げていく。これを慎重にやらないと、内臓を傷めたり、神経の調子が狂ったりして体がむくみ、なかなか元に戻らないこともある。ハンスト後の体調管理は極めて重要である。

ところが、後藤さんの食事の内容はいつまでも粗末なままで、ぞんざいに扱われた。食事制裁という手段で、いたぶるようにして棄教を強要されたのだ。

1年前のハンスト後は、1カ月ほどで食事を普通食に戻したが、2回目は普通の食事になるのに7カ月もかかった。そのため、体がふらふらする状態が長く続いたのである。

ついに無期限ハンストに 家族は「死ぬまでヤレ!」

ハンスト21日間による抗議から約1年後、平成18年(2006年)4月のある日のこと。後藤さんが新しいノートを催促したのに、兄嫁や妹に無視されて互いに激しい言い争いになった。

ノート一冊をめぐるいさかいだが、超長期にわたる監禁下で、何事に対しても非常に敏感になっていた後藤さんは〈今度は以前にもまして長期のハンガーストライキを決行しない限り、監禁から解放されることはない〉と覚悟を決めた。これまで2回のハンストは期間を決めて行ったものだったが、今度は監禁からの解放のメドが立つ日まで、と決めた。すぐに無期限のハンストに入っていった。

前回の21日期間のハンストで弱った体が、ようやく元の体調に回復した時期だった。水だけしか口にしないで、部屋の中に1日、2日…。監禁の状況下だから、部屋の中にずっといることには変わらないが、家族らが脇で平然としていつも通りの食事をする時に、後藤さんは黙って膝を抱きながらぽつねんといるだけだった。

やはり、気がめいったし、怒りが込み上げてきた。

以前、統一教会では7日間の断食を経験したが、それは修行の一環として行ったものだ。その時は、期間中、仲間たちから励ましの声を掛けられた。それに、ものを食べないことはハンストと同じだが、断食の目的は決して闘争的なものではなかった。

ところが、今度はまったく状況が違う。暗闇の中を突っ走るように、孤立無援。家族は、後藤さんのハンストを、あくまで自分たちへの「反抗的態度」にすぎないとしか思わない。今回も後藤さんのハンスト中の苦しみなど、まるで意に介さないという態度を取り続けた。

今まで経験した7日間を過ぎると、その先はやはり不安が起こってきた。10日を過ぎると、本を読んだり、何かを書き付けたりすることがおっくうになり、ものを考えることすら大儀になって、日中もぐったり体を横たえることが多くなった。また何か口にしたい、という思いも、断続的にわいてきた。

すでに2回経験した21日を過ぎると、いよいよ体が衰弱してきて、このまま続けると危ないということが感覚的に分かってきた。

教会での断食は7日間という期間が成就すれば、皆から祝福されるし、自分でも精神的に一回り成長して新たにスタートができるという希望や充実感、やりがいがあった。それが今回はまったく逆で、この先、どうなってしまうのか、自分でもまるで分からなかった。

後藤さんは命の危険を感じ取り30日を区切りに、「これで断食を終わる」と家族に伝えた。ところが、終了を宣言しても、家族は丸1日、重湯などの食事を出さなかった。

体がフラフラし飢餓状態の後藤さんは「殺す気か!」と言って抗議した。それでも家族は「お前は何を言っているんだ。そっちで勝手に断食しておいて勝手に食事を出せとは何事だ!」「馬鹿じゃないのか!」「死ぬまでヤレ!」という言葉まで浴びせられた。

後藤さんは「このままでは本当に殺される」と思い、大変な恐怖心に襲われた。いっそのこと〈死のうか〉という思いも過(よ)ぎった。

だが、思い直した。「ここで死んだら、果たして、家族のためになるか。いやあ、これはならんな」と考え直し、食事を出してほしいと頼み込んだのである。


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