本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。
血だらけの大立ち回り 兄は欠勤して張り付きに
手元に置かせてほしいと求め、いったんは拒否された「現代用語の基礎知識」を、家族は翌2000年1月になると持ってきた。また、このころから産経新聞が“支給”されるようになった。後の話だが、新聞は産経から東京新聞に変わり、それも06年6月ごろからは来なくなった。
「現代用語の基礎知識」や新聞を見て、世間の活気やそこに生起する出来事を知るようになった。そして同時に、マンションの1室に監禁され、心身の自由な活動を封じられている事態の深刻さをひしひしと感じざるを得なかった。
「このままでは、世の中から隔絶されたまま、一生ここから出られない」。抑え難い不安と恐怖に襲われると、夜も眠れなかった。
一度、やみくもに部屋の窓に突っかかり、脱出に失敗している後藤さんは、次は厳重に施錠された玄関口を目掛けて突進して行った。しかし、804号室の間取りは、家族のいる部屋やキッチンが直列的に並んでいて、後藤さんの部屋から玄関までに行くのに、ずいぶん距離を感じたという。玄関に向かって行くたびに家族に取り押さえられた。
後藤さんは大声を出した。力の限り「助けてくれー」「警察を呼べ」「出せ!」などと狂ったように叫んだ。家族は慌てた。周辺に聞こえないように、後藤さんの体を布団でくるみ、手で口を押さえつけた。息ができなくなるほどで、そのまま窒息してしまいそうだった。
兄と一対一でもみ合いになると、羽交い締めにされ組み伏せられてしまうほど、体力が落ちていた。妹と母も、これほどまで、と驚くほどの怪力を出した。
大立ち回りで、顔や手足は血だらけ、体中あざだらけになることもしばしばで、上着はボロボロに破かれた。血が畳にしたたり落ち、タオルで手や畳をふいた。アザだらけになった体を兄に見せ、「これを見ろ、ひどいじゃないか!」と責めたが、兄に「おれもそうだ」などと居直られて相手にされなかった。
人間だけでなく、家財の損傷も激しかった。数本の金属棒で枠を作った台所の棚は変形し、中央の部屋と玄関前の部屋との間を仕切ったアコーディオンカーテンは破れてしまった。
傷や打ち身のために体中が痛んで、夜遅くまで眠れなかったこともしばしばだった。もみ合いの最中、右手薬指をひねり、骨が曲がってしまった。激痛が走ったその時の痛みは2~3カ月の間、消えなかった。
兄は会社を休んで、804号室にずっと詰めるようになった。張り付きといった状態で、後藤さんが騒ぎだせば、すぐに羽交い締めで阻止してくる。後藤さんはあらゆる機会を見計って脱出しようとするので、そのたびに家族はとっさに動き、取り押さえ込む。
こんなことが多いときで1日に8回ほどあって、その繰り返しが1カ月前後続いた。
後藤さんも、もうこれ以上は力が出ないと思うほど抵抗したが、受けて立つ家族たちも、さすがに疲労困憊(こんぱい)のようだった。
脱会説得はなくなる 「訴えられるのを恐れた?」
後藤徹さんは、周辺の住人たちに何とか犯罪被害に遭っていることを連絡しようと努めたこともある。ある時は、隣室に通じる部屋の壁をどんどんたたいて「誰か(いませんか)!」と大声で叫んだが、応答はなかった。
また、約1カ月間にわたって、玄関口に突進することを繰り返した。その間、2000年9月以降、ほとんど顔を見せなかった脱会屋の宮村氏が2度、やって来た。後藤さんが玄関に向かった時、すぐさま取り押さえた兄が、妹に「おい」と言って目配せし、携帯電話で呼び出した。宮村氏は、すでに取り押さえられていた後藤さんの様子を見ただけで帰っていった。
2回目に来た時、後藤さんは風呂場に入って浴槽に足を掛け、換気口に向かって「監禁されている、誰か警察を呼んでくれ!」と、叫び声を上げた。血相を変えて駆け付けた宮村氏に襟をつかまれ、風呂場から引きずり出された。
そのもみ合いで、後藤さんは手を負傷し血を流した。
監禁されたのが31歳で、01年中には37歳になった。このころから後藤さんが04年4月に最初のハンガーストライキを決行するまでのほぼ3年間、家族らによる脱会説得はほとんどなくなった。そして、宮村氏や元信者らは804号室に来なくなった。
こうした一方で、後藤さんから特に要求もしないのに、家族らによって監禁部屋にビデオテープ、イヤホン、卓上電気スタンドなどが持ち込まれた。また、兄が色々なジャンルの書籍を持ってくるようになった。その中には当時、ベストセラーになったハンチントンの『文明の衝突』があったのを覚えている。
3年間で持ち込まれた本は80、90冊ぐらい。しかし、外に一歩も出さない、まるで飼育されている感じの生活に「ふざけるな」と叫びたかった。むらむらと頭に血が上る感情を抑えられなかった。とても人間扱いされているとは思えなかった。「本当にここは現代の日本なのか。まるで中世じゃないか。中世の魔女狩りの時代じゃないか。本当に現代の日本だろうか」と。
なぜ、脱会説得の活動がほとんどなくなり、部屋の中で放置されるようになったのか。後藤さんは「今にして思えば、長期監禁に対し後日、私が彼らを訴えることを恐れたからではないか」と測る。つまり、後藤さんの処置に行き詰まったのである。「家族や宮村らは、自分たちの犯行が明るみに出ることを恐れ口封じのために私を監禁し続けたのです」。監禁は、そのために長期から12年余という恐るべき超長期に及ぶのである。
解放後に知ったことだが、2000年8月には、宮村氏と懇意にしているキリスト教神戸真教会の高澤守牧師が、統一教会信者から訴えられた民事裁判で敗訴している。信者は高澤牧師によって逮捕監禁、脱会強要を受けていた。
後藤さんは監禁下にあっても怯(ひる)まなかった。常に「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言い続けて、彼らを糾弾してきたのである。
同じ所で監禁事件が 人身保護請求書を準備も
「私は後藤徹といいます。私は高層階に監禁をされています。これを拾ったかたは教会に連絡を。謝礼をさしあげます」――。
マンション8階から地上へ、こんなメッセージを綴(づづ)った“投げ文”を思い付いたことがある。しかし、補強用針金の通った強化ガラス窓は、そう簡単に割れるものではない。
また、そんな行動を取ると、どんな仕返しを受けるかもしれない。すでに、ドアに突進するだけで力ずくで押さえ込まれ、さまざまな暴力でけがをしてきた。そのリスクを考えると、気持ちも萎(な)えてしまった。
結局、紙つぶては破って便所に流してしまった。「ここで一生過ごすことも覚悟しよう」と思ったりもした。
実はこの荻窪フラワーホームでは、後藤さんの監禁以前にも、別の部屋で後藤さんと同様の監禁事件が起き、警察ざたになったことがある。この時は脱会屋のもくろみ通りにはいかなかった。
後藤さんがここに監禁される8年ほど前の平成元(1989)年のこと。原田和彦さん(当時31歳、東京・多摩市)の婚約者Oさん(同31歳)が5月の連休中に入籍することなど、今後の結婚生活の報告のため、茨城県古河市の実家に帰省した。しかし、その直後に、Oさんは連絡を絶ち、行方不明になってしまった。
信者でOさんの妹や所属していた統一教会の信者らが、Oさんの親族らの動きを探り、1カ月ほど後にOさんの居所を突き止めた。それが、この荻窪フラワーホーム705号室だった。
Oさんはこの時から3年前にも一度、拉致連行され北海道に監禁されたことがある。救いを求めて飛び込んだ派出所では「親が監禁などするはずがない」と言われ、まともに扱ってもらえなかった。それでも、この時は、後に偽装脱会をして逃れてきた。
荻窪には、Oさんの親類もおらず、縁者や知り合いがいる可能性はほとんど皆無だったこと、実家に両親の不在が続いていたこと。そして、決定的なことは、脱会屋の宮村峻氏がここに出入りしていたことなどから、原田さんは、婚約者が再び監禁されたことを確信した。
そこで原田さん、Oさんの妹、弁護士の3人がこの年6月5日に705号室を訪ね、弁護士が呼び鈴を鳴らした。中から婦人がドアを開いたが、弁護士が身分を告げると、すぐさまドアを閉めてしまった。妹が母親に気付き「お母さん、開けてください」と何度も繰り返し呼んだのだが、その後は何の応答もなかった。
やがて、警察官が駆け付けたが、結局、原田さんと弁護士は、Oさん本人と面会することができなかった。
Oさんは、原田さんらに真意を告げる機会がないまま原田さんと引き離されてしまった。原田さんらはこの時、婚約者Oさんの人身保護請求書まで用意して備えたが、ついにそれは日の目を見ることはなかったのである。
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