本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。
脱会説得者の足音に拒否反応 「監禁自体が犯罪だ」
昼間の時間は“無事に”過ぎていく。何事も起こらないからだ。後藤さんは、その間、ずっと聖書や統一教会の教理である原理講論、統一思想の本を読んで過ごした。
時間が移って夕方6時になり、玄関の方からいつもの足音が聞こえると、拒絶感情が胸の内に一気に膨らんできて、表情と体がこわばってくる。そして、宮村氏と元信者5、6人が入ってきて、いつものように脱会を強要するための糾弾が始まる。
ある時、その内容をメモするためにノートを広げると、一人が「何でノートなんか広げてるの」とそのノートを取り上げ、ぱっと部屋の脇に放り投げ「ふざけんじゃないわよ」と罵声を浴びせた。後藤さんの落ち着きぶりが余計に癪に障るのだろう。
「私が何をしたというのか」と言うと、「お前は、なんでそんなに不真面目で誠実じゃないのか、真摯じゃないわよ」と元信者の一人がわめくようになじる。そして「監禁されていて、真摯も何もないじゃないの」
「いや、監禁じゃない、保護説得だ」
「じゃあ、どこかへ連絡させてくれ」
「そんなことできるわけがない」
「こんな状況で、なぜ私は真摯でなければならないのか」
こんなやりとりの繰り返しだった。
元信者の一人が「社会的な問題になってるんだから、あなたはちゃんと検証して私たちに説明する責任がある」と迫っても、
「そんな必要はありません。もしあなた方が言うように、私が犯罪人なら警察に突き出せばいいでしょ。信仰の自由はあるんだから、あなたがたにいちいち説明する必要はない」と動じなかった。
教理についても、後藤さんは「宗教論争をしても水掛け論に終わるんです。どんな宗教でもそうですから。説明してもいいけれど、それであなたたちを納得させられないかもしれない。しかし、そうだからといって信じていけない、ということはない」と一歩も引かない。
しかし、元信者たちが、なおも「間違った信仰だ」と決め付け「真理であることを証明せよ」とごり押ししてくる。
ならばと、後藤さんは構え直して「私が感動したところは、(教理の)『神は喜びのために人間と宇宙を創造された』という個所です。素晴らしい真理だと確信しています」と告げる。
監禁された中にあっても、一切妥協しない態度に、結局、話し合いといっても<悪うございます><脱会します>と言う以外にないのだから、これは強要にほかならない。後藤さんは「皆さんは、考えろと言いますが、監禁すること自体が犯罪であり、やってはいけないことだ。私のやるべきことは検証じゃなくて、こういう不当な監禁に対する抗議です」と、突っぱねたのである。
40度の高熱でも医者なし 一度だけ夕刊を見た
香港A型のインフルエンザが大流行したのは1997~98年。昨年はこの時から数えて、実に11年ぶりの流行となった。
この98年2月前半の新聞を広げると「全国の学校で発生した患者は五十万人近くにのぼった。過去十年間で最悪のペース」という記事が見られる。
この時期は、宮村氏らが荻窪フラワーホーム804号室に顔を出し始めて間もないころに当たる。後藤さんはインフル大流行のニュースをまったく知らなかったが、部屋に出入りする家族や脱会屋を通して、世間の空気がわずかに入ってくる。後藤さんを含め家族の何人かがインフルエンザにかかった。
後藤さんは40度近くの高熱を出して数日間寝込んだ。だが、ついに医者の診察は受けられなかった。インフルエンザにかかっていた家族が病院で処方された薬を回し飲みさせられたからだ。
この期間は脱会屋も顔を見せず、兄は「小休止だ」などと言っていた。しかし、後藤さんが回復したと見るや、直ちに宮村氏らがやってきた。棄教強要が再開されたのである。
既に監禁から3~4年ほどたっていたこの時期まで、新聞もテレビもない生活が続いた。後藤さん自身、日の巡りだけは分かっても、年月日の認識は定かでなくなってきた。普通に生活する人たちには考えられない恐るべきことだと言わなければならない。
それでも、たった一度だけ、宮村氏が「たまには新聞でも読め」と言い、ある夕刊紙をばさっと放り投げるように置いていったことがある。
「新井将敬衆議院議員自殺!」というショッキングな見出しが目に入った。新井議員(当時)が98年2月19日昼、東京・港区内のホテルで首つり自殺したことを報じたものだから、多分2月20日付の夕刊紙だったのだろう。
統一教会の友好団体である当時の国際勝共連合(国際的な反共団体)に協力的だった新井氏の悲劇。それを、さりげなく知らせて後藤さんの意志を挫こうとしたのではなかっただろうか。脱会屋たちは、都合のいい情報しか後藤さんに与えずにきたことを思うと、あり得る話である。
後藤さんが一度「宮村さん、言葉を調べたいので広辞苑がほしいのだが」と、求めたことがあるが、即座に断られた。兄も「そんなものは必要ない。本来は(教理の)原理講論と聖書だけあれば十分だ」と取り合わなかった。
後藤さんが新潟から東京に移送された時、所持品は何もなかった。その後、聖書、教理関係の書物が与えられた。脱会屋たちは、脱会させるために、死に至るようなリンチを加えることはなかった。体にアザや骨折などの痕跡が残ると、監禁傷害の罪状で、刑法上の罪はさらに重くなる。
拉致監禁という事実に対し、謀って犯罪の証拠隠滅の細工をするためには、自主脱会という形式が必要で、聖書や教理関係の書物だけは、きちんと与えていなければならなかったのだ。
99年末まで“膠着状態”続く 脱会屋が来たのは計73回
後藤さんは宮村氏が来て帰っていくたびに、手元にある本の余白部分に「正」という字の一画ずつを記した。忘れないよう書き連ねた正の文字を数えていくと、宮村氏は1998年1月から同年9月まで、73回やって来たことが分かる。夜6時から8時まで1回に2時間を費やすから、計146時間にもなる。
しかし、1月は連日のようにやって来ていた宮村氏も、季節が変わっていくにつれ来訪が週2、3日になり、ついには週1日となった。また元信者らだけがやって来て済ます日もあり、9月以降になると、宮村氏はほとんど顔を見せなくなった。
そうなると、家族や元信者からの非難の勢いにも自然と陰りが見え始めた。
「ここまで言っても分からないのか」と言われながら、後藤さんは「向こうもさすがに疲れてきたな。自分を持て余しているな」と感じとった。
やがて、元信者たちが来る回数も減り、家族も順番を決めて、順繰りに説得したりするようになった。
その一方で、後藤さんもまた監禁、監視下の中で寸時も緊張感がほぐれる時のない生活に疲れていた。それも一方的に悪者に仕立て上げられ、多人数に囲まれ、まるでスパイが査問されるように激しく追及を受けてきたストレスは大変なものである。ただ、脱会屋らの投げ付ける球がなくなってきた分、気分的には後藤さんが何かを主張できる雰囲気になってきたようでもあった。
“膠着(こうちゃく)状態”が99年末まで続いた。
その間、99年5月に突然、監禁部屋にテレビが入ってきた。自由に見てよい、という。しかし、部屋のふすまを開けっ放しにし、監視の目がある中では、とてもテレビを見る心境にはなれなかった。テレビの音を聞くのさえ、異物をのみこむような嫌な感じがして、ほとんどスイッチを入れることはなかった。世間と全く隔絶しておきながら、今さら<冗談じゃない>という気持ちもあった。
外部とは全く連絡も取れず遮断され、一歩も外に出られない中で1年、2年と年輪だけが刻まれていくことに、後藤さんは大きな不安を感じていた。12月に入ると、流行の用語や知識も含まれる「現代用語の基礎知識」(自由国民社)を持ってくるように家族に求めた。しかし、この申し出を拒否されたため、後藤さんは家族らと激しい言い合いになった。
激怒した後藤さんは「畜生、出てやる。ここから飛び降りてやる」と言って部屋の窓に突進した。窓の内側の障子がずたずたに破れ、桟が折れてはじけた。障子の向こうにがっちり鍵の掛かった窓があって、ブロックされている。
だから、8階の部屋から飛び降りることはできないのだが、その時は冷静さを失い、まともな判断力も働いていなかった。
監禁下のストレスは、他人には推し測ることすらもかなうまい。熱い太陽がじりじり照りつける砂漠の真ん中で、ノドの渇きに喘(あえ)ぎ苦しみながら、何の対策の手だても希望もない。このまま先行きは命が絶たれるしかない絶望感の中で、焦りに焦っていたのである。
連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い
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