#5 止まらない誹謗中傷、脱会屋「宮村峻」【後藤さんの闘い・東京荻窪②】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

偽装脱会を告白 監視の厳しさが増す

偽装し、家族の脱会強要のプログラムに合わせてきた後藤さんだが、常に自分を演出し続けることに、ついに耐えきれなくなった。荻窪フラワーホームに移って数日後、監禁部屋に兄を呼んで、ちゃぶ台を挟んで座らせた。

後藤さんは、緊張し、怪訝な面持ちの兄に対し「実は、私はまだ信じています。今まで、偽装脱会をしておりました」と言うや、机を思いっきり“ガン”と叩いた。そして「こんな監禁などという手段を使うあなた方が悪いんでしょう」と、長い間無理やり心にねじ込んできた思いの丈を一気にぶつけた。

ところが家族のほうは、あっけにとられた。母親は非常に動揺し、ショックを受けていた。そのリアクションから推察して「母親は、自分の息子が脱会し、ほどなく監禁を解かれ解放されるものと信じていたようだ」という。

後藤さんが大学時代まで、一家は互いに信頼し合って暮らしていて、両親にとって自慢の子供たち、後藤さんら子供には尊敬すべき両親だったという。父親も母親も、拉致監禁というような違法な取り組みは極力避けたかったに違いない。

その父親も、この時、亡くなって半年もたっていなかった。一家の大黒柱だった父親は、大手製紙会社の管理職を勤め上げ、子供3人を最高学府まで送った。家族らは、父親の犠牲をもって、今度こそ、後藤さんの脱会説得が果たされる、これで父親も浮かばれる、というぐらいの思いが心のどこかにあったのかもしれない。

後藤さんが依然として信仰を維持していると分かって、兄は兄で「やっぱりそうか」と吐き捨てるように言った。“落ちる”のが、当初1年もかからないと、兄たちは高をくくっていた節がある。

実は、兄と妹は、以前、統一教会の信者であったが、脱会屋の宮村峻・会社社長らの強制説得に遭い、半年もしないうちに棄教してしまった過去があった。兄は「今度は徹の番だ」と意気込み、自分たちが脱会させられた手法や要領を踏まえて、後藤さんに対処してきた。妹の立場も同じだ。

教会についてはほとんど知らない両親がそれに従った、というのが実際だろう。ところが、半年、1年と監禁は長引き、彼らの思惑は外れてしまった。

だが、後藤さんにしてみれば、繰り返し繰り返し棄教や脱会を迫られ、偽装脱会中も執拗な監視が続けられた。

監視の厳しさについてこんな話がある。このフラワーホームに移る前に、6カ月ほど監禁された荻窪プレイスでは、兄が外に出て行く時、その何分か前に、決まって兄嫁が換気扇のスイッチを入れていた。後藤さんによれば、換気扇が、があがあと回る音で、兄が出て行く気配や、玄関を開閉する音を消し、後藤さんに気付かれないようにするためではなかったか、というのである。

家族との食事でも無言 二度と偽装はないと決心

後藤さんが「偽装脱会は偽りだった」と表明した1997年末から年始。普通の家庭なら、家族らが買い物に行ったり、いそいそと初詣でに出掛けたりと、何となく華やいだ気分になるもの。

だが、ここ804号室はテレビもなく、話し声もあまり聞かれず、ひっそりしていた。大晦日、新年、新春などという特別の時節の感覚はまったくなかった。まして、正月気分など、みじんもなかった。

新潟から荻窪のマンションに移ってから、後藤さんの日課は起床が朝の7時ごろ。食事は、たいてい母親が料理したもので、その献立について後藤さんにはあまり記憶がない。ごく普通の食事内容だった。

監禁部屋にあった小さな机と、折り畳み式のものを広げた卓を囲んで、母親、兄、兄嫁、妹とともに箸をとる。しかし、家族はほとんど無言だった。ご飯のお代わりはでき、後藤さんの分は、自分でつぎ足すのだが、兄はいつも<お前、そんなに食う資格はないぞ>と言わんばかりの非難めいた視線を向けた。

床に就くのは夜の11時ごろ。食事、2~3日に一度の風呂、トイレ以外の日中と夜間のすべての時間は、いずれこの部屋に現れるに違いない脱会屋との対決のことで頭がいっぱいだった。

新潟から移ってきた時、後藤さんの所持品はまったくなく、着衣と靴だけだった。部屋の中には、小さな机と洋服ダンス以外は特に調度品もなかった。

この時、後藤さんは34歳。普通なら一家の大黒柱として、社会的に活躍の場を得ているような年である。退屈などという言葉では表すことができない、将来についてまったく見通しのない苦悶の日々だった。偽装脱会中は、言われたことを、受け入れなければならなかったのだ。

だが、偽装脱会の本音を表明して、後藤さんは、今度は強気に反転した。「偽装をしたことを明かした以上、二度と偽装は通用しない。真っ正面からぶつかって闘って、どこまでいくか分からないが、それしかないと思った」という。

それから時を置かず、思い切って玄関口に向かって行ったことがある。フラワーホームから脱出しようと勢い込んだものの、兄から足を掛けられて簡単に倒された。あまりに、あっさり取り押さえられてしまった。

玄関ドアは、南京錠とチェーンによって施錠されていた。その上、力ずくで脱出を阻まれた。再び大きな無力感にとらわれ、脱出の希望が遠のいたと感じざるを得なかった。

拉致監禁された新潟の時から、普通に食事をし、脱出のためには体力が必要だと毎日、部屋の中で屈伸などの運動を続けていた。また、後藤さんは身長182㌢あり、家族で写っている写真を見ても、他の家族より一頭地を抜いていて体格も良かった。

だが、この時、兄に簡単に押し倒されてしまった。後藤さんが思っている以上に、自身の体力が落ちていたのである。

なす術を失う家族 脱会屋の来訪へ

後藤さんは偽装脱会だったと明らかにしたため、荻窪フラワーホーム804号室は、徹底的な棄教強要の場となった。家族らは「偽装脱会は許せない」と非難したが、後藤さんは「こんな監禁なんかする方が卑怯(ひきょう)で、人権侵害だ」と真っ向から抗議した。これまでは、家族の言うがままにおとなしくしていたのだが、拉致監禁の加害者側に正面から闘うことを宣言したことになる。

そのむき出しの闘志に、家族はこれからの脱会説得についてなす術(すべ)を見失ったのかもしれない。母は後藤さんに「宮村さんに会ってみるか」と勧めてきた。

後藤さんは「ああ」と承知した。母親のいう「宮村さん」とは、脱会屋の宮村峻・会社社長のことだ。

〈いよいよ出てきたか〉と思った。後藤さんにとって、顔を見るのも嫌でむしずの走るほどの脱会屋だったが、監禁からの解放は、とりあえず脱会屋の説得を突破しなければならなかった。後藤さんが短く応じたのは、避けて通れないだろうと思ったからだ。

話は1998年1月から87年10月に10年余をさかのぼる。後藤さんは23歳だった。この時も、棄教を父親や兄に強要され、東京・新宿の京王プラザホテルの一室に一週間ほど監禁された。

その翌日から連日、元信者を引き連れて部屋に入ってきて、くどくどと統一教会批判をしたのが、母親が「宮村さん」と呼んだ宮村社長だった。

後藤さんはこの時受けた非難中傷を忘れていなかったし、〈脱会屋・宮村に警戒!〉ということは、統一教会員の仲間内で言い交わされていた。

東京・杉並区に荻窪栄光教会という、当時は、森山諭牧師(故人)が中心だった教会がある。そこに宮村社長は出入りし、森山牧師と一緒になって脱会説得活動を行っていた。後藤さんは、兄たちによって京王プラザホテルの一室から、とあるアパートの2階に移され、そこから荻窪栄光教会に通い統一教会批判の話を聞くよう強いられた。

アパートは、この教会から徒歩で10分ほどの所にあり、当時、脱会説得の場所によく使われていたが、今となっては、その所在は明らかでない。

後藤さんは、この時、既に大成建設に勤務していたのだが、会社にも連絡を取れないまま欠勤が続いた。後藤さんはある日曜日に、この教会で説教を聞いていた時に隙(すき)を見て、逃げ出したのである。

一方、87年に宮村社長によって統一教会を脱会した兄は、その直後から教会を脱会させるために画策する宮村社長の手助けをするようになった。さらに宮村氏が社長を務める株式会社タップに就職し、文字通り社長の手足になって働くようになったという。このケースのように、宮村社長は、自ら脱会させた人たちの何人かを自身の会社で雇用している。

取材班は、何度かタップ社に電話し、宮村社長に面会を求めた。しかし、電話口に出た女性の「社長は今、留守です。いつ戻ってくるか分かりません」という答えしか返ってこなかった。


連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い

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