本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。
第2の監禁場所へ 玄関には特殊な鍵が
後藤徹さんが東京・保谷市(当時、現在・西東京市)の実家に帰ったところを拉致され、新潟市に連れて来られたのは1995年9月。そして1年9カ月を経て、東京に移された。
監禁場所が実家とそう遠くない東京・荻窪あたりだということを後藤さんは薄々感付いたが、再びワゴン車に乗せられての移送は、夜の暗い中だった。明確な場所は最後まで分からなかった。
ただ、マンションのベランダのところに鉄パイプが1本、最上階から下の階まで縦にすっと通っている特徴ある外観だったのが他とは違うという印象があった。
一昨年、解放された後、後藤さんは刑事告訴し荻窪警察署の事情聴取を受けた。その時、担当官に同行して現場の確認を行った。
まず訪れたのは、JR荻窪駅のすぐそばにあるマンションだった。「後藤さん、このマンションですか」と担当官が指さした建物は、確かに雨樋の金属パイプが一本通っていたが、記憶していた外観とははっきり違っていた。
次に案内されたのは、そのすぐ裏手にあるマンションだった。地下にあるJRとメトロが乗り入れる荻窪駅から地上出口に出て、石畳風の洒落たカラータイル敷きの南口仲通り商店街を5分ほど行った所だった。外観が記憶と一致し、後藤さんはうなずいた。マンションの表示板には「荻窪プレイス」とあった。
最初に、わざと違うマンションに案内され試されたような感じだったが、警察は既に捜査で現場を特定。その確認をとっただけのことであろう。それでも、後藤さんにとっては「荻窪駅にこんなに近いところだったのか」ということは驚きであった。
その6階の一室に押し込まれたのであった。室内はトイレと風呂と玄関が相接するようにしてあった。隙を見て逃げられるかもしれないと直感したのは、新潟のマンションのように、長期間監禁するには、決して好ましくない間取りだったからだ。
移動があまりに急だったので、監禁に適した部屋を手当てできなかったのであろう。
それでも、偽装脱会中の後藤さんは、軽率な行動は取れなかった。常に監視の目があり、玄関口をじっと見ていただけで「何やってるんだ」と警戒されてしまう。その上、玄関はカーテンが引いてあって、じっと見ても、なかなか様子が分からなかった。
それでも、わずかな隙を見て凝視すると、ドアのノブのあたりに何かが付いているのが分かった。そして何かしら数字も見えた。「あっ、数字を合わす鍵だ」と気付き「これではだめだ」と、瞬間的に暗い気持ちになった。玄関ドアには特殊な鍵が付いていた。
まだ、監禁を解くつもりがないのだと分かると、憤りと絶望感にうちひしがれた。
家族は「(後藤さんが落ちるのは)長くても1年もかからないだろうと思っていた節がある」と後藤さんは語る。それが予想を超えて監禁が長期化していくにつれ、兄はだんだんいらついてきた。
ある日、後藤さんが、何気なく玄関近くに行った。すかさず、兄は「向こうに行ってろ!不愉快だ」とどなり散らした。急に切れたようになったのだ。
その場の空気がさっと凍り付いてしまい、後藤さんは黙り込むしかなかった。父親も亡くなったことで、家族の間もさらにぴりぴりとして互いの心がささくれ立っていた。
脱会の偽装は限界か 物品搬入や工事の音が慰めに
監禁されて約2年、後藤さんは、偽装脱会中も隙(すき)あらば逃げ出そうと四六時中絶えず狙っていた。
しかし「演出(偽装)して解放されるか、絶対に脱出できるという時が来るまであくまで待とう」という心も一方にはあった。偽装が見破られたり、脱出強行に失敗すれば、「このやろう、またしても」ということになりかねない。
だが、脱出のチャンスは一向に訪れず、両にらみのポーズも限界に近かった。「いつまで監禁されるか、どうなるか分からない。慎重に、慎重に…。ところが、はらわたは煮えくり返ってますので、<何で解放しないんだ。やめた、と言ってるだろう>という思いが募って、いつまで閉じ込めてるんだと叫びたくなりました」
外へ一歩も出してもらえない。1日に何分かでも外に出してもらえれば、その隙に、というチャンスがあろうが、まったく出られない。「私も憤りが相当激しくて、外に出てしまう。ぴしっとした演技ができない。反発的な態度が出たりしたら、『おまえまだ怪しいんじゃないか』となってしまう」――。
ただ、多少の慰めめいた日常の刺激もあった。
毎日決まって、早朝の5時から6時にかけて、ゴロゴロ、ゴロゴロと重いものを乗せて運ぶ台車が出すような音が、近くから聞こえてきた。ベランダにさえぎられ、室内からは直接、地上を望めないので確かめようがなかったが、たぶん、スーパーマーケットのような店に商品を搬入している人の押す台車の響きではないかと思ったりした。
兄は「安眠を妨害する音だ」と迷惑そうに言ったが、後藤さんには、むしろ小気味よく響いた。階下の道路から聞こえてくる、何となく救いにつながる音のような気もした、というのである。
トッテンカットン、金づちでたたくような音が聞こえてきたこともあった。マンションの窓から見下ろしても道路までは見えない。真向かいに見えるのは、何か木造モルタルの屋根だけだったが、ここが商店街の通りに近いということは、かすかな雑踏のざわめきのようなもので感じていた。
だから、その音は、商店かちょっとした建物の改装工事の音ではないかと思ったりした。
後藤さんは、この年12月に、震度3ぐらいの地震があり、部屋が揺れたことを覚えていた。そこで、1997年12月に東京で発生した地震の記録を調べてみると、6日と7日に連続して、震度3程度の地震が起きている。発生時間までは覚えていないので、そのどちらであるかは確定できない。
ただ、この程度の地震は、東京では珍しいことではなく、10年以上前のことなど、普通はすっかり忘れてしまうものだ。それが記憶にあるのは、外部からの刺激があまりにも少なかったためであろうか。
昨年、後藤さんは約10年ぶりに現場を訪れた。監禁されていたマンションの道を隔てた斜め向かいに、スーパーマーケットのCO‐OP(コープ)があるのを確認した。早朝のあのゴロゴロという音は、やはり商品搬入の手押し車の音だった。
「まるで犬扱いだ!」 脱出不可の804号室
新潟のマンションに置いたままにしていた財布、免許証、現金などの所持品は、ついに後藤さんの手元に戻らなかった。そして、東京・荻窪のマンション「荻窪プレイス」は、玄関が風呂やトイレ近くにあるという間取りのため、逃走される恐れがあると見なされたのかどうか。
結果的に、ここは一時つなぎの監禁現場となり、半年ほどいただけになった。1997年6月下旬に移送され、この年12月には、JR荻窪駅から線路に沿った道を歩いて10分ほど、青梅街道に出るところにある荻窪フラワーホームに移った。後藤さんはこのマンションの一室で、10年2カ月余にも及ぶ間、監禁されることになる。
この移送の際も、エレベーター前で待ち受けていた見知らぬ男や、母、兄夫婦、妹に囲まれエレベーターに乗せられ1階に降りた。そして、新潟からここに来る時と同様に、家族や数人の見知らぬ男らにワゴン車の中に押し込まれ、荻窪フラワーホームに運ばれていった。
新しい監禁現場となった8階建てのマンションは、東京の幹線道路の一つで、新宿に続く青梅街道沿いにあるのだが、そこが青梅街道から枝分かれした道の付け根部分にも当たる。そのため、歩いていても、車に乗っていても、案外、見落として過ぎてしまいそうになる。外壁が軽い黄土色で地味な外観になっていることもあって、監禁場所としては都合がいいマンションかもしれない。
毎日、このマンションの前を通るという新聞配達人は「ここでそんな監禁事件が起きていたなんて信じられません。いつも静かで、目立たない建物です」と驚いていた。
後藤さんはここの最上階8階の一室に監禁された。7階の屋上に乗せるように奥まってある8階は、表通りから見上げただけでは分からず、脇道を入ったマンション裏手から見上げないと確認できない。
後藤さんは、804号室の一番奥のベランダに面した部屋に連れて行かれた。改めてマンションを見上げると、そのベランダが小さく目に入る。
監禁されてすぐ、後藤さんは何気ないふうに玄関口が見える所まで行ってみた。そこで、玄関が内側から鎖と南京錠で開かないようにされているのがはっきり見えた。
その様子を見とがめた兄は、「シッ、シッ」と言って、手の甲を後藤さんの方に向けて振り、奥の部屋に追いやった。後藤さんは、人間扱いされていない、という感情を抑えきれず、「これじゃまるで犬扱いじゃないか。おれは人間だぞ!」と言い放ったのだった。
監禁部屋の窓は、開けられない。すべて施錠できるタイプのクレセント錠が取り付けられ、専用の鍵で施錠されていたからだ。
部屋は、台所とふすまで隔てていたが、このふすまを開け放して、母、兄、妹、兄嫁が後藤さんの部屋にいてもいなくても、言動を監視できるよう見張っていた。
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