#3 「やはりいやな感じだ」事件は607号室で起きていた 【後藤さんの闘い・新潟③】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

「607号室」が記憶と一致 「いやな感じ」呟く後藤さん

後藤徹さんは、監禁現場の部屋を「605号」室だと知り、そうメモに残したが、現場に行ってみると、そこは体が覚えていた角部屋ではなかった。そこで、昨日付の連載11で後藤さんの記憶を基に列記した、現場を特定できそうな事項と、連載7(11日付)で掲載したマンションの間取り図を基にして、該当する部屋を調べていった。

すると、ある不動産会社が売りに出していたパレスマンション多門の物件情報にある間取りとほぼ一致した。角部屋でないために若干の違いはあるが、後藤さんの記憶と同じタイプの部屋だった(まず②の間取りが一致)。

さらに後藤さんの記憶を基に調べると、ほかの証言が確かなものとなる証拠も見つかった。

後藤さんが新潟にいた3年後の2000(平成12)年に撮影された新潟市内の航空写真である。この写真には、パレスマンション多門の南側に隣接した建物が写っていて、その屋上には貯水タンクもはっきりと確認できる。

建物は、新潟に本社を置く新和証券のものだった。同証券のホームページを見ると、1966(昭和41)年5月から2007(平成19)年11月まで、パレスマンション多門の隣の住所に本店を構えていたことが記載されている。

後藤さんが監禁中にいつも見ていたのは、まさしくこの会社の建物だったのである(③が一致)。

航空写真では、今はない④の駐車場があることも分かった。さらに駐車場を抜けた先には大通りが見える(④が一致)。

こうして、監禁現場はパレスマンション多門で間違いないことが裏付けられ、さらに部屋番号も特定できた。後藤さんは「パレスマンション多門が監禁現場だとすると、(部屋は)事情聴取で知った605号室でなく、角部屋の607号室の方が記憶に近い」と語る。

マンションの所有者は兄嫁の親族だと聞いている。実は、この兄嫁の旧姓と、607号室の郵便受けにある名前の片方が同じだった。航空写真を見ると、後藤さんが窓から見た光景も、この角部屋から見える位置が一番近いのである(①が一致)。そして、この607号室こそ、廊下の一番奥、突き当たりまで行った部屋だった(⑤が一致)。

以上のことから、後藤さんの記憶と状況がすべて一致した。この「パレスマンション多門607号室」が監禁現場であることは、ほとんど間違いないことが分かった。再び、いやな記憶の残る監禁現場を確かめられたことは、わざわざ新潟まで行ったことの大きな収穫であった。

憲法によって信教の自由が保障されている日本であるにもかかわらず、家族に暴力によって棄教させることを唆し実行させる人たちが私たちの近くにいるのである。自身が閉じ込められ、責め立てられて合わせて12年余にもわたる想像を絶する超長期監禁の被害者となった後藤徹さん。

この連載は、まだその最初の2年近くを綴(つづ)ったにすぎない。後藤さんの途方もない超長期間にわたる被害証言は、まだまだ続く。

ここで過ごしたという苦々しい記憶が残るマンションを離れた後藤さんは、ぽつりと呟(つぶや)いた。

「やはりいやな感じだ」

生死握る牧師の判定 人権侵害は明らか

「ご家族の要請があって、お話ししただけです」

たびたび後藤徹さんの脱会説得に訪れた、新潟の新津福音キリスト教会の松永堡智牧師は昨年8月、本紙連載「続・拉致監禁」の中で行った取材で、こう語るだけだった。果たしてその通りなのだろうか?

前述してきたように、松永牧師が新潟の監禁場所となったマンションに現れたときはいつも、符牒のように回数を決めていたドアのノック音に、親や兄妹が緊張した様子を見せて出て行った。外にいる相手が誰だという確認もしないでドアが開けられるタイミングを、奥にいて玄関口を目撃できない後藤さんでも確かに感じ取っていた。

松永牧師の言う額面通りの説得だったならば、後藤さんに何度も対面していて、その置かれていた状況が普通ではないという様子を見て取れないはずはなかろう。第一、後藤さんの様子を見て何も感じ取れないほど鈍感なら、人々の悩みや心理を受け止めてコミュニケーションすることが大事な牧師という仕事は務まらない。要請されるままに、のこのこやってきて、人の顔色も見ず、改宗や脱会を強力に迫るだけ、ということなどあり得るだろうか。

松永牧師のコメントは、いかにも事前に予定された想定問答集、マニュアルに沿ったコメントでしかない、と言えまいか。

後藤さんが監禁されていたという事実に対し、弁解もしなければ、驚愕もしない。そんなところに、相当深い底意を感じるのだ。

松永牧師は、脱会した信者たちを引き連れてやって来て、教理批判を行うこともあった。実際、1988(昭和63)年時点で、後藤さんに対してと同じような強制改宗活動を繰り返し行っていたことが確認されているが、その詳しい話は後の機会に譲る。

拉致監禁の行程で、牧師の行った役割はこれだけではない。さらに決定的なことに言及しないわけにはいかない。

後藤さんは精神的に「ここから脱出するには、偽装脱会しかない」と追い込まれ、新潟のマンションに監禁されて3カ月目に脱会の意思を表明した。脱会届を書き、私は統一教会にだまされ、そのことについてどう思っているのか、何が間違いだったと思っているのか、などという手記を書かされた。一種の告白である。それを見て、“この人間は確かに落ちた”かどうかの判断を下すという過程に、松永牧師は中心的にかかわっている。

教理批判など理論的な面で説得を繰り返してきた上に、偽装脱会の真否を判定し決定するのは、松永牧師の大いなる役割、権限でもあった。「信仰を棄却するか、改宗するまで、拉致監禁する」という、江戸時代の踏み絵、あるいは中世暗黒時代の異端審問さながらの光景が、今の日本の社会の中で暴力によって行われている。

このことに、江戸時代に多数の殉教者を出した受難の歴史を持つキリスト教牧師が加担している。松永牧師の一言が、文字通り、後藤さんの信仰の生死の鍵を握っていたのは明らか。基本的人権である信教の自由を著しく侵していたことは、疑いのない事実なのである。

監禁場所が都内に 牧師にひれ伏す家族

公権力による人身拘束は法律に基づいて厳密に行われる。その対比で言うと、拉致監禁中、偽装脱会かどうかを判定する松永牧師の存在とその一言一句が法律のようなものであり、後藤さんを直接拉致した親や兄妹は、その権威にひれ伏し指図されているという構図になる。事件が発覚して、「ご家族の要請があって、お話ししただけです」という言葉の、いかに寒々とした響きを伴って聞こえてくることか。

拉致監禁が行われる行程における松永牧師の権威を示す、こんな例もある。

後藤さんが偽装脱会を表明した後のこと。監禁場所にやってきた松永牧師に対し、後藤さんは「申し訳ございませんでした」とあいさつした。その時、たまたま座椅子(いす)に座っていた。

すると、すぐに父親がそれを見とがめた。「おまえ、どれだけ牧師先生に世話になったと思っているんだ」「なのに、なぜおまえだけ座椅子を使っているんだ」と、厳しく叱責(しっせき)した。

後藤さんは、慌てて座椅子を脇に押しのけて正座し、改めて「申し訳ございません」と叩頭(こうとう)しきりだった。父親が牧師に対して“ひざまずいている”様子がよく伝わってくる話ではないか。

後藤さんにしても、ドキッとしたことだろう。ふてくされていたままでは、松永牧師に脱会が本当だとは認められない。そして解放されないと思うと、大変な冷や汗ものだった。

そういうところまで松永牧師が、いちいち見ていて厳しくチェックしていることを、後藤さんは肌身に感じていた。怪しいとなれば、解放されない。その悪い予感は的中して、解放されそうな気配すらなく、ずっと観察され続けてきた。

監禁場所は1995年9月の新潟から、97年6月、父親の死去を契機に東京に移っていく。

妹から、「兄からだ」と携帯電話を取らされ、そこで父親の死を知らされた。「最後のお別れをするか、どうか」と問われ、「分かった」と短く答えた。

「とうとう分かり合えずに、父親が亡くなったことに非常にショックを受けました」という後藤さん。

新潟のマンションに脱会の説得に来ていた元統一教会信者の男性がワゴン車を運転し、助手席には兄嫁が座った。運転席の後ろの席には、兄嫁の2人の兄が中央と右端に座り、左端には元信者女性が座った。最後列は、右端に妹、左端に元信者の男性が座り、後藤さんは中央に座らされた。車から脱出できないよう、周りは厳重に固められた。

すべてが念入りで計画的なやり方で大掛かりに行われてきたことが分かろう。

亡き父親が安置されている西東京市の自宅では、母と兄が待っていて、そこで父と最後の対面をした。

この後再びワゴン車に乗せられた後藤さんは、兄から「もう新潟には戻らない」ことを告げられた。夜、同じ所をぐるぐる回るように走ったワゴン車は、都内で監禁を継続されることになる1カ所目のマンションの前に止まった。

連れ込まれた部屋は3階か4階だと思って記憶していたが、実際は6階(605号室)だった。次回からは、東京・荻窪で継続した監禁について綴(つづ)っていく。


連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い

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