本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。
脱会装うも解放されず 逃げられぬ心理状態
新潟市内のマンションに監禁された後藤さんは、統一教会信仰の棄教を迫って、あれこれ画策する家族やキリスト教牧師を前に、ここからどうしたら出られるかについて思いを巡らせていた。結果、信仰を棄てたと見せ掛ける「偽装脱会」しかないとの思いに行き着いた。
後藤さんが監禁されたのは9月11日。それから3カ月後の12月には偽装脱会を決意した。意に反する脱会を表明し、脱会届も書いたのである。
そして以後、それが偽装だと家族に悟られないような生活態度を取る必要があった。牧師らの教会批判に耳を傾け、素直に従っているふりをするなどの努力もしてきた。
だが、半年が過ぎ1年が過ぎても、後藤さんの監禁が解かれる気配は一向に見られなかった。
「なぜ脱会を表明しても出してくれないのか」
そう思うと痺れを切らしそうになる。だが、偽装していたことが分かると、前より事態が悪くなり、それこそ何をされるか分かったものではない。監禁され、自分の意思とは違う自分を演じる中で、崩壊しそうになるぎりぎりの精神状態をかろうじて保ち続けた。
そんな家族が監視したまま部屋を一歩も出られない状態が続く中で、父親ががんで入院した。それに伴い、母親は父に付き添いでマンションを離れた。
兄は東京で働いていたため、たまに顔を見せるぐらい。いつもマンション内にいるのは、妹と兄嫁だけになっていた。
このため後日、家族がついにあきらめて12年余後に解放された後、後藤さんが家族らを逮捕・監禁罪などで刑事告訴した時、警察当局の事情聴取では「この時逃げれば逃げられたのではないか」と何度も問われた。
部外者から見れば、大の男が力を振り絞ったなら、女性二人だけの部屋から逃げることなどわけもないはず、と思うだろう。しかし、そこは簡単なものではない。逃げようと思っても、まず肝心の鍵がどこにあるか分からなかった。それに監禁された部屋は6階。窓から抜け出して飛び降りることもできない。
それに、少しでも変な行動を見せて騒ぎを起こすだけに終わったら、それまで続けてきた偽装の努力が水の泡となってしまう。
後藤さんは、厳重に監禁された中で偽装脱会する者の心理状態を「100%絶対出られると確信できる状態になるまでは、ひたすらおとなしくするしかない。失敗したときに、今よりさらにきつい監禁状態になると思うと、とても行動に移せなかった」と振り返る。
第三者の目と、実際にそこで忍従している人とでは、感じ方が違ってくるのは当然だろう。
父親の死で突然に転機が 現場を確かめに再び新潟へ
偽装脱会の努力もむなしく、なお監禁状態を解かれなかった後藤さん。家族らが指示を仰ぐ松永堡智(やすとも)牧師は、依然として後藤さんの「脱会」表明を偽装と疑っていたに違いない。後藤さんは、崩壊しそうになる精神状態を辛うじて支えて、ひたすら忍耐するほかなかった。
膠着(こうちゃく)状態が続く中で突然、転機が訪れた。1997(平成9)年6月22日に、父親が亡くなったのである。父親と今生の別れをするため、新潟から東京・保谷市(現・西東京市)の実家に連れ戻された。拉致され無理やり新潟に連行されてから1年9カ月が過ぎていた。
この後、再び新潟に行き監禁が続くものと思ったが、突然、兄から「もう新潟には戻らない」と言われた。今度は東京・荻窪にあるマンションで監禁が継続されたのである。これらのことは、当日に知らされ分かったことだった――。
◇ ◇
後藤さんの監禁は、こうして東京・荻窪でも継続されることになるのだが、その模様を綴(つづ)る前に、新潟の監禁現場を検証していく。
今年1月下旬、後藤さんは記者とともに雪の降る新潟を訪れた。辛(つら)い思い出が残る上越自動車道を行く車の旅ではなく、新幹線を利用した。12年余にわたった監禁から解放されて丸2年を迎える前に、自身の監禁現場を直接確かめたかったのだ。
実を言うと、後藤さんは監禁場所をしっかりとつかんでいたわけではなかった。というのも、当時、監禁現場間の移動は外との接触や情報を遮断して行われたため、その住所表示や周辺の風景を見て記憶に刻んでおく余裕もなかったからだ。監禁の実際を家族らに指図した“黒幕”は、被害者が現場を分からないようにし、証拠を残さないよう巧妙にことを行う拉致監禁のプロであるから、そうそうへまなどはしない。
それでも、後藤さんは連行されマンションのエレベーターに乗る際、家族が6階のボタンを押したことだけは覚えていた。
それ以外に、自分がいる監禁場所がなかなか掴(つか)めないままだったが、後々になって、手掛かりとなる幾つかのことが少しだけ分かった。
一つは、監禁されたマンションの持ち主、つまり所有者についてである。
監禁場所が荻窪に移った後、新潟のマンションはどのようにして用意したのかを何気なく家族に聞いてみたことがある。何気なく聞いたからか、家族もつられて何気なく答えたようだ。それが誰だったのかは記憶していないが、マンションの持ち主は新潟出身の兄嫁の親族だということが分かった。
もう一つはマンション名について。12年以上に及ぶ監禁から解放された後に、後藤さんは自身の拉致監禁を実行した宮村峻・会社社長や家族らを相手取り告訴した。その事情聴取を受けているときに、ちらっと取調官の持つ書類に書いてあるマンション名と部屋番号が目に留まって見て知ったか、あるいは取調官から聞いたのである。
マンションの名前は「パレスマンション多門」だった。部屋は「605だった」と思い、その記憶を後からメモに残したのだが、何号室かについては、しっかりと記憶したマンション名ほどの自信はなかった。
繁華街近くでもひっそり 人知れず運び込めるマンション
マンション名は「パレスマンション多門」。後藤さんは、この記憶には間違いないという自信があった。
実際、このマンションは、新潟駅から歩いて20分ほど、信濃川を渡り北西に進んだ場所にあった。新潟一の繁華街「古町」から道を3本隔てた所と近い割には、人が多く集まる古町に比べると、このマンションの前は人通りがいかにも少ない。
後藤さんが家族らに押し込められるようにマンションに連れ込まれたのは、深夜であった。その時間帯に合わせてパレスマンション多門を訪れた。
辺りはひっそりと静まり返っていた。ここが、深夜も煌々(こうこう)とネオンが輝き、人通りが絶えることのない古町のすぐそばにある所とは、とても信じられないほど対照的な場所だった。
地元の地理に詳しいタクシーの運転手に聞くと、パレスマンション多門がある新潟市中央区の上大川前通は、繁華街の古町で働く人が多く住んでいる。そのために、明け方まで帰ってこない人が多いという。いわば、新潟の中心近くにありながら「穴場的に静かな場所」なのだと教えてくれた。
監禁されたマンションは、後藤さんの兄嫁の親族がたまたま所有していたものだが、人知れず拉致した人を運び込み監禁するのには、まさにうってつけの場所だ、ということになる。
後藤さんは、監禁されたマンション名を知らなかった。それほど外にも出られず、外部との接触も一切断たれた過酷な状態での監禁だった。それを知ったのは、前回に触れたように、警察での事情聴取の際にちらっと書類を見たからだったのか、事情聴取した担当官から聞いたものだったのか、その辺りの記憶は定かでない。いずれにせよ警察は、パレスマンション多門を監禁現場だと調べ上げていたことが分かった。
後藤さんの記憶に残っている風景から、新潟の監禁現場が特定できそうな事項を、すでに綴ってきたことを含めて列記してみたい。
①監禁されたのは6階の角部屋で所有者は兄嫁の親族②間取りは2DK③窓越しに覗(のぞ)くとすぐ隣に建物があり、その屋上には貯水タンクが見えた④隣の建物から道を隔てた場所に駐車場があり、駐車場を抜けたところに大通りが見えた⑤部屋はエレベーターを降りて廊下の一番奥、突き当たりにあった――ことなど。
新潟での監禁からすでに13年以上がたっている。そのため、わずかな記憶を頼りに監禁現場から見た外の風景を語る後藤さんだが、一貫して証言がぶれることがない。特に、隣の建物についてははっきりと覚えている。
しかし、後藤さんが実際に新潟のマンションを訪れると、記憶にある風景とは少し違った。「パレスマンション多門」の眼下には駐車場があるだけで、後藤さんがいつも見ていた隣の建物や④の駐車場が見当たらなかった。さらに、部屋番号を警察の事情聴取で知った際に「605号」室とメモしたが、そこは体が覚えている角部屋ではなかった。部屋はマンションの中ほどにあった。
これらの記憶と現場の不一致を埋めるために、まず、今連載の7回目(11日付)で紹介したマンションの間取り図を元にして該当する部屋を調べた。
連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い
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