#1 「しまった」気づいたときにはワゴン車に押し込まれた 【後藤さんの闘い・新潟①】

本記事は2010年2月より本紙に掲載された連載「"拉致監禁"連鎖」の1回~50回を計15回に再編集したものである。今年7月に開催されたシンポジウムでジャーナリスト鈴木エイト氏は後藤徹氏が被った拉致監禁事件を「引きこもり」と曲解し「どうでもいい」と言下に切り捨てたが、「拉致監禁」は憲法に違反し、人権を完全に侵害する事件である。後藤氏は10月4日、東京地裁に名誉毀損の損害賠償を求めて鈴木氏を提訴した。拉致監禁とは何か、後藤氏らはその真相を今もなお追い続け、闘いを続けている。

甘かった実家帰り 無理やりワゴン車に

夜の高速道路をひた走る車から外へ目をやると、交通標識などから新潟方面に向かっていることだけは分かった。一度も行ったことがない所だった。

まだ訪れたことのない土地に行けるとなると、たいていの人は未知の情景を期待を込めて思い描いたりして心が弾んだり、多少なりとも興奮するものである。それが自然の美しい場所なら、なおさらであろう。

だが、1995年(平成7年)9月11日の夜、突如として無理やりワゴン車に押し込まれた後藤徹さん(当時31歳)の胸の内には、そんな期待はあろうはずもない。これから起こるであろう「監禁」という非情な仕打ちに、後藤さんは憤りと不安と恐怖が入り交じる気持ちの中で、とにかく逃げ出せるスキをうかがうことで精いっぱいだった。

北朝鮮に拉致された横田めぐみさん(当時13歳)は、工作員に乗せられた船の中で「お母さん、お母さん」と叫びながら、壁を引っかいたために爪が剥がれそうになり血だらけとなった。そう北朝鮮の元工作員の安明進氏が著書「北朝鮮拉致工作員」(徳間書店)の中で記している。

後藤さんの場合は、本来助けを求めたい両親が同じ車内にいた。家族が、この時姿を見せていない“黒幕”の指導を受けて拉致を実行したのだ。

大声を出したら何をされるか分からない。182㌢と長身で体格もいい後藤さんだったが、父と兄に両腕をつかまれては、抵抗できない状態をひたすら耐えるしかなかった。

この日、後藤さんは東京・保谷市(現在の西東京市)の実家に帰っていた。すでに一度は拉致監禁されたことのある後藤さんだったが、その時はスキを見て逃げ出していた。それから8年もたっていた。家族も再び同じことはしないだろうと信頼していた。

だが、それは甘かった。両親や兄、妹、兄嫁との食事が終わると、急に引き締まった表情に変わった父親から「徹、話がある」と切り出された。「しまった。また拉致監禁か」と思った時は、すでに遅かった。父と兄に引きずられるようにワゴン車に押し込められた。

車に乗せられる際、統一教会側から「職業的脱会屋」と呼ばれ要警戒人物とされる宮村峻・会社社長の下で働く従業員が庭に潜んでいるのが見えた。後藤さんの逃走を防ぐために動員されていた。綿密に計画され、家族以外の人間もかかわって組織的に行われた拉致だった。

後藤さんを乗せた車が東京から新潟市内のマンションに着いたのはその日の深夜だった。

この時は知る由もなかったが、この日から実に12年余に及ぶことになった統一教会棄教を迫るための拉致監禁の初日となった。そして2年前のきょうが、解放された日である。後藤徹さんの証言によって、“12年余の空白”を埋めるべく、その被害体験を綴っていく。

奪われた12年余 改造されていた部屋

マンションの玄関に横付けした車から降ろされ、両腕をつかまれたままエレベーターに乗せられた。6階の監禁現場となる一室に押し込まれるまでに、ものの数分とかからなかった。

その日から監禁場所が東京・荻窪に移される1997(平成9)年6月22日まで約1年9カ月の間、新潟にいたことになる。その間、後藤さんはずっと部屋に閉じ込められ、一歩も外に出られない“捕らわれ”の日々を過ごしたのである。

後藤さんは、63(昭和38)年、名君・上杉鷹山で知られる山形県米沢市で次男として生まれた。日大理工学部に通っていた86(昭和61)年に、四つ年上の兄から紹介されて統一教会の教えと出合った。やがて、その教えに感銘し「ここに真理がある」と確信し入教した。

しかしそれから程なく、皮肉なことに兄と妹が後藤さんが味わったような拉致監禁下での「説得」を受けた末に教会を脱会。その兄と妹が職業的脱会屋らの指導を受けて、後藤さんの拉致監禁を実行するという不幸で悲しい連鎖がある。

新潟のマンションに監禁された後藤さんは、その後監禁場所を2度も移された。家族や職業的脱会屋から受ける「説得」と称する統一教会批判や罵倒、暴力に耐えながら屈しなかった。結果、ついには12年5カ月もの日本では例を見ない超長期監禁の被害者となった。

家族やキリスト教牧師らがとったこれらの行動は、法治主義国家である日本では信教や言論の自由などの基本的人権を侵す犯罪としか言いようのないものだ。後藤さんの人生においては、まさに「奪われた12年余」「空白の12年余」となったのである。

監禁中、兄は後藤さんに「この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ」「どんな犠牲を払っても決着を付ける。覚悟しておけ」などと言い放った。統一教会を紹介したのが兄だけに、弟への気持ちは複雑で、攻撃が先鋭化するのも避けられまい。後藤さんを棄教させるためには、どんな手段も辞さないことを強調して迫ったのだ。

後藤さんが押し込められた新潟のマンションは2DKタイプだった。玄関を入ると左側にトイレと浴室があり、その奥が台所・居間。居間の隣(浴室から廊下を隔てた正面に当たる)には和室があり、その奥にも部屋があった。ただ、この奥の部屋だけはなぜか鍵が掛けられ、後藤さんはおろか家族も入ることがなかった。

ほとんど和室に閉じ込められていた後藤さんは、トイレに立つのにも常に監視の目が光っていた。部屋と居間にはそれぞれ窓があったが、すべてストッパーで固定され、開けられない仕掛けになっていた。また、玄関には通常の鍵とは異なる鍵が付けられ、家族が持っているキーがなければ外に出られなかった。その上、ドア付近に近寄ることもできなかったのだ。

現場に基督教牧師 ノックの音に今も緊張

新潟のマンション6階に監禁されて2週間ほどすると、部屋に訪問者が現れた。新津福音キリスト教会の松永堡智(やすとも)牧師だった。

数多くの強制棄教にかかわってきた松永牧師は、後藤さん同様に拉致され違法監禁に2年間耐え抜いた医師で、その拉致監禁体験を告発した小出浩久氏の著書『人さらいからの脱出』(光言社)にも、拉致側の中心人物の一人として登場する。統一教会側には、恫喝(どうかつ)まがいの荒っぽい手法で知られる宮村峻・会社社長とも組んで、家族らを教育し拉致監禁を指導し行わせてきた人物として知られている。

松永牧師の教会は旧新津市にあり、今は新潟市秋葉区の住所表記となる。JR新潟駅から新津駅まで、快速電車で1駅、普通で5駅目。新津駅から歩いて10分ほどの場所にある。後藤さんは中に入ったことはないが、外観は立派で、新津駅の改札口から市内を眺めると、屋根と十字架がはっきり見えるほどだ。

小出氏によると、新津福音キリスト教会に通っていた信者から、この教会堂建設には二億円ほど掛かったと聞いたという。小出氏の父親も「牧師の依頼を受け、献金として百万円、貸付金として三百万円を提供」(前掲書から)している。

後藤さんの監禁現場に現れた松永牧師は、あいさつもそこそこに済ませて「統一教会は問題のある団体だ」と切り出すと、教義批判を繰り返した。口調は穏やかだったが、後藤さんは牧師ともあろう者が「監禁という手法を取っていることに憤りを感じた」と反発した。

松永牧師は多いときに週3日、後藤さんが新潟にいる期間に20回から30回は監禁現場に現れた。やって来るたびに、後藤さんに暗に改宗を迫った。

松永牧師がマンションに来たときはすぐ分かった。ドアをノックする回数を取り決めていたようで、いつも合図のように何度かノック音がしたからだ。すると、家族は緊張した様子で「説得者」が来たことを察知して玄関に向かった。

自由を封じられた監禁下では、捕らわれている者が支配される立場にある。そのノックの音を聞くと、支配者側の人物が来たことが分かり、体がすぐに反応する。「全身がサーっと冷たくなった」と、後藤さんは今でも苦渋の表情を浮かべる。気持ちも「また来たのか、と沈んでいった」と言う。

その後遺症は今も残っている。監禁から解放されて2年を経た今でも、ノックの音を聞くと背筋に緊張が走る。それほど、後藤さんにとってはトラウマになっているのだ。

こうした気持ちは、実際に長期間の監禁中に筆舌に尽くし難い惨苦を味わった人にしか、分からないものだ、と後藤さんはもどかしげに語る。


連載一覧はこちら ―拉致監禁・強制改宗―続く後藤さんの闘い

#1 「しまった」気づいたときにはワゴン車に押し込まれた 【後藤さんの闘い・新潟①】

#2 偽装脱会もむなしく、崩壊しそうな精神状態 【後藤さんの闘い・新潟②】

#3 「やはりいやな感じだ」事件は607号室で起きていた 【後藤さんの闘い・新潟③】

#4 「まるで犬扱い」監禁場所は東京だった 【後藤さんの闘い・東京荻窪①】

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