「常世神」「妣が国」を象徴 折口信夫の心捉えた能登のタブノキ

漂着した先祖の記憶宿す

本格的な論考は残さず

七尾湾の海際に生育するタブノキ。塩入地でも逞しく生育する(藤橋進撮影)

歌人で民俗学者・国文学者の折口信夫(しのぶ)は、常緑広葉樹のタブノキ(タブ)に特別な関心を寄せた。折口学の根幹となる『古代研究』3巻の口絵には、能登半島で撮影されたタブノキの写真が掲載されている。

タブは、「クスノキ科タブノキ属」の高木で、ツバキなどと共に日本の照葉樹林を形成する代表的な樹木。地下に海水の侵入する塩入地にも適するため、海岸ではとりわけ目立つ木だ。能登半島では内陸部にも多くみられる。

昭和2年、折口は國學院大學の学生を伴って、能登の羽咋(はくい)を訪れ、能登一宮・気多(けた)大社(たいしゃ)の社家で國學院の学生、藤井春洋(はるみ)の生家に泊まる。気多大社周辺や藤井家にはタブが鬱蒼(うっそう)と葉を茂らせており、折口に忘れ難い印象を残した。

折口は慶応義塾大学の教授を務めていた昭和12年にも、藤井らと共に慶応国文科の池田弥三郎らを伴って富山から能登を旅している。池田の回想によると、一行は富山県の氷見から山越えして能登の七尾に入ったが、その途中の崖上に、海に向かい立つように枝を張った見事なタブの木があった。池田は、折口が1日がかりの山越えの道を選んだのは、「このたぶを若いわたし達に見せておきたいと思われてのこと」だったと書いている(毎日新聞社刊『魚津だより』)。

このように、折口には特別な思い入れのあるタブではあるが、口絵に計20枚以上の写真を掲載した『古代研究』の3巻のどこにも、タブに関する論考は載っていない。折口もそれを気にして、「追ひ書き」で、「『たぶ』の写真の多いのは、常世神の漂着地と、其将来したと考へられる神木、及び『さかき』なる名に当たる植木が、一種類でないこと」などを示すためだったと述べている。

後に書かれた『日本文学啓蒙』ではこう述べる。

「(我々の祖先が)漂着した海岸は、たぶの木の杜に近い処であった。其処の渚を踏みしめて先、感じたものは、青海の大きな拡がりと妣の国への追慕とであったろう」

池田はこれらの文章から「折口先生のたぶに思い寄せた幻想が、かなりはっきりしてくる」と言う。確かにタブが、「常世神」「妣(はは)が国」「まれびと」など折口学を象徴する樹木であることは理解できる。

しかしタブについての本格的な論考を、折口はついに書くことはなかった。池田はその理由を、タブに対する見方が微妙に変化してきたためではないかというが、ならばなぜ、そのことを書かなかったのかという疑問が残る。

折口のタブ、特に能登のタブへの深い思い入れは、学問的インスピレーションを与えた樹木であるとともに、弟子たちとの交情の思い出が深く宿った植物であったことも大きいのではないか。『古代研究』の口絵のタブの写真は、藤井春洋の撮ったものであった。

春洋は、後に折口の養子となるが、昭和20年硫黄島で戦死する。終戦後再び藤井家を訪れた折口は、「気多はふりの家」の歌の連作でタブを詠んだ。

たぶの木のふる木の杜に入りかねて、木の間あかるきかそけさを見つ

よく知られているように、昭和28年に亡くなった折口の遺骨は、本人の希望通り、気多大社の近くに春洋との親子墓に葬られている。

(特別編集委員・藤橋進)

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