涅槃宗の信者だった家祖・政友 住友グループ発祥の聖地
家訓に「浮利に趨らず」
住友グループのホームページを開くと「別子銅山は、現在の工都新居浜と住友グループを生み出した母なる銅山」との言葉が記されている。別子(べっし)銅山は愛媛県新居浜市にあった銅山で、総産銅量は日本第2位の約70万㌧。元禄4(1691)年の開坑から1973年の閉山まで283年間、一貫して住友家が経営し、住友化学や住友機械、住友林業など幾つもの関連事業を誕生させた。
新居浜市にある別子銅山記念館前の石碑には、岩に挟まれた銅板に「この銅山(やま)を神とし仰ぎ幾代かも掘りつぎて来しことの畏(かし)こさ住友吉左衛門友成」と浮き彫りにされていた。住友吉左衛門は住友家が3代目から代々襲名した名前で、友成(ともなり)は16代当主、最後の住友本社社長である。
同館の手前には愛媛県今治市の大三島にある山の神・大山祇(おおやまづみ)神社から御祭神を勧請した「大山積神社」があり、境内には別子銅山で使われた蒸気機関車やディーゼル機関車が展示されていた。記者が訪れた5月28日、記念館の屋根を覆うサツキが満開だった。
受付にあった漫画を開くと、住友家初代の小次郎政友の生涯が描かれていた。住友家には家祖と業祖の2人の創業者がいて、家祖は福井県坂井市出身の住友政友。天正年間に生まれ、武士から僧侶になり、涅槃宗(ねはんしゅう)の開祖・空源を師に仏門に入り「文殊院空禅」と称した。涅槃宗の後継者と見なされるほど優秀だったが、寛永年間に涅槃宗が天台宗に吸収されると寺を離れ、いずれの宗派にも属さない「員外沙弥(いんがいしゃみ)」と称して独自の仏道を歩むようになる。
その後、還俗(げんぞく)した政友は京都で書籍と医薬品反魂丹(はんごんたん)を商う「富士屋」を開いたのが「町人・住友家」の興り。政友は商売上の心得を『文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)』にまとめ、これが住友グループ各社の社是の原型となる。有名な「浮利に趨(はし)らず」は住友家の家訓の一節。
業祖は、政友の姉婿に当たる蘇我理右衛門(そがりえもん)で、南蛮吹きといわれる銅精錬の技術を開発し、天正18(1590)年、京都に銅吹所を設け、これが住友家の家業となる。政友の長男・政以は「富士屋」を継ぎ、長女は理右衛門の長男・理兵衛友以(とももち)を養子に迎え、家祖と業祖が結合。住友2代目は友以が継いだ。
友以は寛永元年に大坂へ出張所を出し、当時、銅は主要輸出品で銅精錬業は繁栄し、これが住友財閥の起源となる。さらに糸、反物、砂糖、薬種等の輸入にも手を広げ、その利益で両替商を開業した。
友以の5男・友信は住友吉左衛門を名乗り、秋田の阿仁銅山、備中の吉岡銅山などを経営して幕府御用の銅山師となり、住友を日本一の銅鉱業者へと発展させた。住友財閥大躍進の基となった別子銅山は、吉左衛門友芳(ともよし)が開発、友芳は住友家「中興の祖」と呼ばれる。
別子銅山の最初の採鉱は海抜1000㍍以上の険しい山中であったが、やがてその中心は瀬戸内海に臨む新居浜市側へ移る。坑道は全長700㌔、最深部は海抜マイナス1000㍍にも及んだ。
閉山後、別子銅山のテーマパークとして1991年にオープンしたのがマイントピア別子。当地はかつて最後の採鉱本部が昭和5年に東平(とうなる)から移った所で、明治26年には銅山の中継地点から採掘現場になった。
「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる観光名所は、端出場(はでば)ゾーンより山側の、標高750㍍付近にある東平地区。大正5年に採鉱本部が移設されると、銅山設備の周りに社宅・小学校・娯楽場・接待館が建てられ、約5000人の住民で閉山まで賑(にぎ)わったという。
(文と写真・多田則明)