「日本が有事になって米国が助けてくれないことははっきりした」。ウクライナを巡る米国の動きから日本国際問題研究所客員研究員の田村重信氏はこのように述べ、米国頼みの防衛政策からの脱却を唱える。まずは、非核三原則(核兵器を持たない、つくらない、持ち込ませない)のうち「持ち込ませない」を変えるべきと主張。中谷元・首相補佐官は今年2月18日、高知市で行われた国政報告会で「持ち込ませず」を見直す必要性に言及した。
昨年7月、奈良市で演説中に銃弾に倒れた安倍晋三元首相は同年2月、出演した民放番組で「日本はNPT(核拡散防止条約)の加盟国でもあり、非核三原則があるが、世界はどのように安全が守られているかという現実について議論していくことをタブー視してはならない」と述べ、北大西洋条約機構(NATO)のような核共有体制を構築する必要性に言及した。核議論の扉が再び開いた瞬間だった。
同年3月、日本維新の会もまた核共有の議論を始めるよう政府に提言。自民党内の保守系グループは、米国と連携して核抑止力を高める「国家核抑止戦略」を策定するよう岸田文雄首相に申し入れた。
果たして核共有は有効なのか。元陸将補の矢野義昭氏は、「米大統領がノーと言えば核が使用されない。核の傘の信用性の向上にはつながらない」と懐疑的だ。ドイツなどNATOの非核保有国は、戦闘機F16に模擬核弾頭を搭載し投下訓練を行っている。しかし、仮にロシアとの実戦で使った場合、飛行中に防空ミサイルシステムの餌食となる可能性が高いという。
では、英国、フランスのように米国の同盟国として核を「持つ、つくる」選択はないのだろうか。実は、日本は米国と戦った太平洋戦争当時、核兵器を開発し、完成する直前段階にあった。原爆の研究・開発は1940年、陸軍航空技術研究所の安田武雄所長が理化学研究所(理研)に原爆の研究・開発を持ち掛けたことで始まった。45年4月の空襲で核爆発装置を失い、計画を断念したとされるが、それでも8月12日早朝、朝鮮半島北部の日本海側沖合で爆発実験に成功した記録が残っている(ロバート・ウィルコックス著『成功していた日本の原爆実験』)。
それだけではない。戦後の日米安保体制を築いた岸信介首相は59年に自衛のための核兵器保有は違憲ではないとの見解を示すなど、核保有の可能性は残っており、今日も内閣法制局長官が防衛のための必要最小限度の核兵器の使用を憲法は禁止していない旨の見解を示している。
核武装計画が極秘裏に検討されていたことを示す文書がある。69年の外務省の内部文書「わが国の外交政策大綱」の中に「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘(せいちゅう)をうけないよう配慮する」とある。2017年、熊谷弘・元官房長官はこれを肯定する形で、産経新聞に「(原爆を)3カ月で造れる」と話している。
ところが、その能力が揺らいでいる。東日本大震災で発生した福島第1原発事故で当時の民主党政権が進めた「原発ゼロ」政策の影響だ。自民・公明が政権復帰しても稼働にこぎ着けた原発はわずか7基である。
文部科学省が19年に発表した資料によると、大学の原子力関係学科における原子力専門科目の開講科目数は1979年と比べて半減し、東海大学は原子力関係学部の新規募集を今年春、停止した。将来の核政策が固まっていないため技術者の維持・育成が困難になっているのだ。(豊田 剛)