「世界中の指導者は核抑止論は破綻していることを直視し、厳しい現実から理想へと導く具体的な取り組みを早急に始める必要がある」。広島市の松井一実市長は6日、「原爆の日」の平和記念式典で岸田文雄首相を前に、こう訴えた。
核抑止論とは、核兵器による反撃を恐れさせることで相手に攻撃をとどまらせるという考えだ。今年5月、広島で開催された先進7カ国首脳会議(広島サミット)で採択された核軍縮文書「広島ビジョン」は、「我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている」とうたい、核抑止論を肯定した。
しかし、被爆国日本には世界に核廃絶を求める岩盤世論がある。原爆被災者らは、核軍縮議論に踏み込まなかったことに落胆を隠せない様子だった。ノーベル平和賞の受賞団体・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の川崎哲・国際運営委員は、サミットは「失敗」と言い切った。
広島・長崎の被爆地、および沖縄など戦争で多くの犠牲者を生んだ地域に共通するのは、被害者意識が強いため、リアルな安全保障が議論しづらく、防衛力の強化を口に出しにくい環境にあることだ。
それでも、「力による現状変更」に動きだしている中国やロシアなど覇権主義国家に囲まれた情勢の中にあって、わが国でも防衛論議は高まり、自衛隊への理解は増している。
自民党の麻生太郎副総裁は8月8日、台湾で講演し、「台湾海峡を含むこの地域で戦争を起こさせない」ためには、「日本、台湾、米国をはじめとした有志国に強い抑止力を機能させる覚悟が求められている」と語り、有事の際には「台湾のために防衛力を使う」と明言した。予想通り中国は「強烈な非難」という言葉で猛反発したが、国内では冷静に受け止められている。軍事力強化が国民に理解されつつある証左だろう。
その一方、軍事パワーのバランスを左右する核戦力のことになると、日本の世論は途端に否定的になり、米国も警戒心をのぞかせる。記憶に新しいのは、2006年の「核武装論」へのバッシングだ。
北朝鮮が「核保有国」を名乗るメルクマークとなった同年10月9日。朝鮮中央通信は地下核実験の成功を伝え、爆発の地震波を観測したわが国では新たな核脅威の出現に緊張が走った。
「日本が攻められないようにするために、その選択肢として核ということも議論としてある」――第1次安倍政権の当時、自民党政調会長の中川昭一氏(故人)は同15日放送の民放番組で訴えた。この発言は「日本の核武装論」として内外に波紋を広げた。
米国の動きは素早かった。その翌日、ブッシュ大統領は米FOXニュースで「中国の懸念」に言及。同18日にはライス国務長官が来日し、麻生外相(当時)との日米外相会談で「米国は日本への抑止と安全保障のコミットメントをあらゆる形で履行する意思と能力を有している」と強調し、米国の拡大抑止に議論を挟む余地を与えなかった。
政府も直ちに「非核三原則を堅持する」(安倍晋三首相)と表明し、連立与党の公明党が後押しした。国会では野党の追及に麻生氏が「いろいろな議論もしておくのも大事なことだ」と述べる一幕もあった。が、中川氏や麻生氏はマスコミから、野党から、自民党内から批判にさらされた。このバッシング状況に中川氏は、「議論させない」を加えた「非核“四”原則」だと問題視したのだった。
(豊田 剛)