奈良で仏教の足跡をたどる

点在する寺院で歴史的展開概観
奈良国立博物館で、「聖地 南山城―奈良と京都を結ぶ祈りの至宝―」(浄瑠璃寺九体阿弥陀修理完成記念特別展)が、9月3日まで開催されている。
本展開催のきっかけとなった浄瑠璃寺の九体阿弥陀修理完成は、阿弥陀如来による救いが説かれた平安時代を回想させる。
鎌倉時代には、戒律による仏教の復興に努めた解脱上人貞慶(じょうけい)が興福寺から笠置寺(かさぎでら)に移って弥勒(みろく)信仰を深め、その後、海住山寺(かいじゅうせんじ)に移り観音信仰にも関心を寄せた。

武士道の骨格となった禅宗では、一休宗純が当地に結んだ草庵が、後に一休寺とも呼ばれ庶民にも親しまれた。時代によって変遷しながら、仏教は人々の祈りに応え、広まっていったのである。
会場をゆっくり巡ると、奈良に接する京都の最南端という南山城(みなみやましろ)ならではの仏教の歴史を楽しく旅することができる。
南山城のロケーションはJR奈良線で京都から奈良に向かうとよく分かる。城陽市を過ぎたころから西側に木津川が見え、東には滋賀県の信楽に通じる山並みが続く。木津川は北に走り、石清水八幡宮の北側で宇治川と桂川に合流し、淀川となって大阪湾に注ぐ。
聖武(しょうむ)天皇が一時、都を移した恭仁京(くにきょう)跡は、木津駅で関西本線に乗り換え、加茂駅で降りると近い。行基が最初に架けたとされる泉大橋の西側で木津川はほぼ直角に東に曲がり、上流は三重県の伊賀にさかのぼる。都を当地に定めた大きな要因が水運の便利さにあったことは容易に想像できよう。
関西本線をさらに東に行くと、巨大な磨崖仏(まがいぶつ)がある笠置寺の笠置駅に着く。鎌倉幕府に逆らった後醍醐天皇が籠城した笠置山に登ると、山岳信仰の足跡を目の当たりにすることができる。奈良の寺での学びに飽き足らない僧たちが、修行を深めようと当地に身を移したという。
木津川市に跡が残る高麗寺は、高句麗から渡来した氏族が飛鳥時代の7世紀に建立したとされる。古来、伏見から南山城は狛(こま)(高麗)氏や秦氏など渡来系の氏族が居住し、それぞれの信仰する寺を設けていたのである。

飛鳥時代から奈良時代にかけての仏教は、宗教というよりむしろ総合的な学問で、当時の日本人の知的好奇心を刺激し、日本人が最も勉強した時代を迎える。インドで生まれ中国、朝鮮を経由して日本に伝わった仏教は、以後、古来の神道をベースに日本人の宗教として受容され、発展していく。
木津川市の神童寺(じんどうじ)は、古くから奈良の吉野山と密接な関係を持つ修験道の霊地で、聖徳太子の創建と伝えられ、役行者(えんのぎょうじゃ)がこの山で修行中に2人の神童の助力を得て刻んだという蔵王権現(ざおうごんげん)像が本尊。木造不動明王立像はいかめしい顔をしながら、どこか悪ガキのようでユーモラスだ。
弥勒信仰の聖地・笠置寺は木津川南岸にそびえる標高288㍍の笠置山の山頂にある。全山が花崗(かこう)岩からなり、古来から巨岩を神としてあがめる磐座(いわくら)信仰の山であった。山頂の巨岩に弥勒磨崖仏が彫られたことで、貴賤を問わず笠置詣でが盛んになったという。

護国宗教として受容された仏教は、平安時代の初めに最澄と空海が現れ、個人の心身ともの救いの教えとしても浸透するようになり、やがて極楽往生を説く浄土教が貴族から庶民にまでいきわたるようになる。最澄が開いた延暦寺のある比叡山は日本仏教の母山とも呼ばれるように、鎌倉仏教の宗祖たちを育て、膨大な仏典の中からそれぞれの宗祖が選んだ教えを中心に、禅宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など日本的な仏教が広まっていく。
南山城には、そうした日本仏教の歴史的展開を、横断的に概観できる寺院が点在している。
今秋9月16日から11月12日までは東京国立博物館で特別展「京都・南山城の仏像」が催される。
(多田則明)