ミステリーは1日にしてならず

現代の読者も惹きつけるフィーリクスの本格長編
本質、魅力を確認
岩波文庫の新刊、佐々木徹編訳『英国古典推理小説集』を読んだ。基本的に推理小説はラインナップに入れていない岩波文庫だが、「読み進むにつれて推理小説という形式の洗練されていく過程が浮かび上がる、画期的選集」といううたい文句に引かれ手に取った。
編訳者の佐々木氏は「はじめに」で「推理小説」の定義「犯罪(あるいは何らかの事件)が発生し、それを探偵役の人物(素人もしくは玄人)が論理的な推理を働かせて解決するプロセスを主眼とした物語」を示す。そしてここで示された「犯罪」「探偵」「推理」という推理小説の3要件を備えたのが、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』(1841年)であることを確認する。
本書の冒頭には、そのポーによるチャールズ・ディケンズの推理小説的風味の小説『バーナビー・ラッジ』の書評が載っている。「推理小説史に残る貴重な文献」を紹介しながら、佐々木氏はポーの中に既に、「作者は読者に嘘をついてはいけない」という推理小説のルールを意識していたことに驚嘆する。
佐々木氏によると、ポーはディケンズが訪米した時に2度会って文学論を交わしたが、その後、推理小説作品を書くことはなかったという。いわゆる本格推理小説が全盛となるためには、なお時間とさまざまな作者の登場を待たねばならなかった。ミステリーは1日にしてならずである。
本書に収められたウォーターズ「有罪か無罪か」ほかの短編集は、事件の解決が偶然によるものであったりして、本格的な推理小説には遠い。しかし、その成長過程を観(み)ることによって、改めてミステリーの本質、魅力を確認することができる。
そんな短編の一つ「七番の謎」の作者はウッド夫人。アガサ・クリスティーの前にも女性推理作家がいたことに英国ミステリー界の歴史や層の厚さを思わずにはいられない。編者も指摘しているが、この作品では人間的な要素が大きな魅力となっている。
謎解きエンターテインメントの女王クリスティーの作品も、結構鋭い人間観察がちりばめられているが、これも英国ミステリーあるいは女流作家の伝統と言っていいのだろう。
チャールズ・フィーリクス「ノッティング・ヒルの謎」は、本編に収められた唯一の長編で本邦初訳。英国ではおなじみの遺産相続問題に保険金詐欺が絡む殺人事件がテーマだ。法律事務所員が語り部となりながらも、大半は事件に関するさまざまな証人の証言をそのまま載せながら小説を構成する極めて斬新な作品。推理小説の揺籃期にこんな作品が書かれていたとは驚きだ。
少し忍耐しながら、その証言を一つ一つ読んでいくと、だんだん引き込まれていく。証言の書き方も証言者の階級や職業などよく配慮していて、リアリズムの基礎があると感じさせる。謎解きの鍵には、メスメリズムという当時流行した「動物磁気」を操作して病気を治す特殊な療法がある。その点を理解して読んでいけば、現代の読者も十分楽しめる作品だ。
(特別編集委員・藤橋 進)