寺社や町並みに名残り
真田幸村の娘、功を残す

秋田県南部の由利本荘市で「入部400年」を記念しさまざまな行事が催されている。元和9(1623)年に、戦国の乱世を生き抜いた六郷(ろくごう)、岩城(いわき)、打越(うてち)の3領主が政務を行うため初めて領地に入ってから今年で400年。今回はそのうちの岩城氏、2万石亀田(かめだ)藩の城下町を歩いた。日本海に面し、北は秋田市、南は山形県へと至る。
2万石の城下町は把握しやすい広さだ。今の天鷺(あまさぎ)城は観光用に建てられたもので、最上階まで上ると町の全体像が俯瞰(ふかん)できる。「みちのく真田ゆかりの地 秋田由利本荘」のパンフレットなどを手にし歩いた。
駐車場が広い「天鷺村」から山手に行くと亀田城跡地がある。城と言っても、政治をつかさどる平屋の建物だったという。山の上にはワイン城(休業中)が見えた。
近くに天鷺神社がある。境内では、力士時代の力道山が奉納相撲をしたと伝わる。
近くに、真田幸村の娘・御田(おでん)の方(かた)(顕性院殿)が建てた妙慶寺がある。2代宣隆(のぶたか)の後室で、最後まで真田家の再興を願った。宣隆は、わずか32歳で亡くなった御田の方を供養するため、身に着けていた品々を妙慶寺に収めた。宝物殿で観覧できる。なぎなたが得意で、文武両道の良妻賢母。自らの手で育てた長男重隆は3代藩主となり名君として尊敬された。
城の周りは300人ほどの武士の家が立ち並んでいた。町割は秋田藩が行い、税金の関係から間口3間×奥行15間または2間×10間の敷地が多い。
黒い塀の立派な商家の建物がある。明治、大正時代にかけ呉服商や米穀業を営んだ佐々木利三郎家住宅(国登録有形文化財)で、当時のにぎわいが漂う。
国道34号の手前に人工的に造った川があった。日本海まで小舟に年貢米を積み、北前船に運んだという。その目の前は、岩城家菩提(ぼだい)寺の龍門寺である。参道は石がこけむし趣深いが、境内まで車で乗り入れ可能。左の階段を上っていくと、小高い丘に岩城家の墓所がある。3代重隆は真田幸村の孫で、豊臣秀次の曽孫(ひまご)でもあり、水戸光圀の知遇も受けた。6000石の新田開発を行うなど亀田藩の基礎を築き、月峯(げっぽう)さんと尊敬されている。
街を歩くと、寺が多い。度重なる大火や飢饉(ききん)、病気などで苦しめられた。7代藩主は藩校長善館を創設している。これは秋田藩より早く、さらに医学校まであった。
(伊藤志郎、写真も)





