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食料くれた日本兵に感謝

78年目「慰霊の日」 上原義雄氏に聞く戦争体験

母と離れ危うく戦争孤児に/勇ましくも可哀想だった特攻

うえはら・よしお 昭和12年、那覇市生まれ。小学2年生で終戦を迎える。琉球大学で物理学を専攻。卒業後、中学教師として勤務。昭和56年から3年間、ドイツの日本人学校に勤務。現在、日本会議沖縄県本部の那覇支部長を務める。
うえはら・よしお 昭和12年、那覇市生まれ。小学2年生で終戦を迎える。琉球大学で物理学を専攻。卒業後、中学教師として勤務。昭和56年から3年間、ドイツの日本人学校に勤務。現在、日本会議沖縄県本部の那覇支部長を務める。

台湾、日米で守らなければ

組織的な沖縄戦が終結したとされる「慰霊の日」は23日、戦後78年目を迎える。壮絶な地上戦が繰り広げられた沖縄での体験を語ることのできる人々の高齢化が進む。上原義雄氏(86)もその一人だ。沖縄においては、直接戦争を知らない世代による、当時の日本兵を蔑(さげす)むような言説も聞かれる。そのような中で上原氏が今、伝えたいこととは何か。戦争体験と共に、その思いを聞いた。(聞き手=沖縄支局・川瀬裕也)

昭和19(1944)年4月に那覇市小禄の小学校に入学した。1学期は授業を受けたが、夏休みから海軍航空隊「巌部隊」が学校に駐屯することになり、2学期からは「御嶽(うたき)」(琉球神道の祭事を行う場所)に集まって勉強した。12月ごろになると北部・やんばるへ疎開する人が増えてきたが、私を含めた母の姉妹3家族12人は小禄の防空壕(ごう)にとどまっていた。

昭和20年5月、母と兄が、空襲と艦砲射撃がやむ夕方を待って近くの畑に芋を掘りに向かった帰り道で日本兵に会った。彼らは「明後日、米軍が上陸してくるからすぐに南に逃げなさい」と言い、持っていた食料の缶詰をたくさん分けてくれた。自分たちの食料も少なかったはずだろう。本当に感謝の気持ちしかない。

しかし、どこに逃げればいいかも分からず、そのまま壕(ごう)に隠れていると、2日後に突然の空爆が始まった。爆弾で崩れた壕の天井の下敷きとなり、当時1歳に満たなかった従妹は一言も言葉を発さずに亡くなった。

ようやく暗闇に目が慣れてきたころ、米兵が入り口をのぞき込んで、「カマワン、カマワン(カモン=出てこい)」と叫んだ。やはり日本兵の言ったことは正しかったのだ。この時、私は米兵に見つかってしまった恐怖から死を覚悟した。だが次の爆弾で壕が崩れて生き埋めにされ窒息死する方がもっと苦しいのではないかと思い、両手を挙げて投降することにした。だが米兵に驚いた母は後ずさりし、壕の奥へと隠れてしまった。ここで母と離れ離れになった。

その後、車に乗せられて中城村にある収容施設へと送られた。道中、米兵が缶詰を開け、中からキャンディーを出して、自身の口に入れて見せた後、私に手渡してくれた。しかし米兵が口にしたキャンディーと色が違ったので、もしかしたら毒が入っているかもしれないと思って食べなかった。

収容所で数日が経過したある日、一人寂しく庭に座っていると、門の外に一瞬、母に似た人物が見えた。壕の中で爆弾に押しつぶされているとばかり思っていたが、実は母も投降しており、私を探しに来ていたのだった。生きていたことも、再会できたことも奇跡だった。戦争孤児になることは避けられた。

程なくして現在の名護市の辺りに移動することになった。地上戦が終わりに近づいた6月のある日の夜、日本兵の特攻機が1機、米軍艦に向かって飛んで行くのを見た。二十数本の米軍のサーチライトに照らされながらとても高い所を飛んでいた。軍艦からはポンポンと砲弾が飛んでいたが特攻機は無事だった。しばらくすると急降下を始め、軍艦に向かっていった。

そこから先の西海岸の様子は山に隠れて見えなかったが、とても複雑な思いにかられた。78年経(た)った今でもこの時の様子は鮮明に覚えている。壕に隠れていた時、日本兵が特攻する時間だけは艦砲射撃がやみ、外に食料を探しに出ることができた。特攻機はとても勇ましく、同時にとても可哀想(かわいそう)だった。

現在、日本兵を蔑むように語る人々がいるが、少なくとも私の経験では、沖縄県民は日本兵に大切にされていたと感じる。日本、沖縄のために命を懸けて戦った日本兵を誇りに思っている。

戦争を繰り返さないために武力を放棄すべきだとの声もあるが、自分の国を懸命に守る姿勢を示さなければ平和を保つことはできない。台湾有事が囁(ささや)かれているが、日本と米国が、同じ自由と民主主義を掲げる国として台湾を守っていかないといけない。(談)

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