3年ぶりに大柴燈護摩供
近世に観音信仰から大師信仰の寺へ
5月14日、四国霊場第86番札所「志度寺」で3年ぶりに大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)が行われた。護摩壇の周りには結界が張られ、女性2人を含む山伏10人が法螺(ほら)貝を鳴らしながら入場して始まった。
真言宗善通寺派の志度寺は瀬戸内海の海岸近くにあり、海辺の境内に苔(こけ)むした「海女の墓」が、近くには高松藩主だった生駒親正(ちかまさ)の墓がある。
美濃に生まれた親正は信長の臣下として美濃攻めに加わり、信長死後は秀吉の下で活躍、文禄4(1595)年に讃岐国主となり高松城と丸亀城を築いた。関ヶ原の戦いで親正は西軍にくみしたが、嫡男一正が東軍に参じたため本領安堵(あんど)される。しかし、家中の生駒騒動で改易され、高松藩は幕府直轄となり水戸徳川家の松平頼重(よりしげ)が常陸下館(しもだて)藩から転封された。高松松平家の菩提(ぼだい)寺は浄土宗の法然寺。
鎌倉時代に描かれた掛幅(かけふく)「志度寺縁起絵巻」(重要文化財)は、神木が琵琶湖から流れ下って瀬戸内海沿岸の寺にたどり着く物語で、とりわけ「海女(あま)の玉取り伝説」には中世の人々の信仰が描かれている。
後に摂関政治を行う藤原氏北家の祖・藤原房前(ふささき)の母が、命と引き換えに龍神から宝珠を取り戻した海女だったという話で、志度寺の起源とされる。その話とは…。
藤原不比等と海女の伝説
奈良時代、藤原不比等が父鎌足の供養のため興福寺を建立した時、唐の高宗の妻になっていた妹が三つの宝珠を船で送った。ところが、志度の沖で海が荒れたので、龍神の怒りを鎮めるため宝珠を海に投げ入れた。
不比等は、姿を変えて志度に失われた宝珠を探しにきたが、見つからない。そのうち、不比等は若い海女と親しくなり、房前をもうけた。
いつも海を眺めている夫に海女が理由を聞くと、不比等は身分を明かし、事情を話した。海女が「宝珠を取り戻したなら、房前を世継ぎにしてくれるか」と聞くと不比等はうなずく。
海女はわが子のためにと観音菩薩(ぼさつ)に祈り、腰に縄を結んで海に飛び込む。海女は海底で宝珠を取り戻したが、龍神に見つかり、追われる。
海女は乳房を短刀でえぐって宝珠を隠し、命縄を引いた。不比等が縄を引き上げると、宝珠は乳房から出てきたが、海女は死んでしまう。
不比等は海女の墓を築き、堂宇を建て「死度道場」と名付けた。そして、房前と都に帰り、宝珠を興福寺の本尊釈迦如来の眉間に納め、成長した房前は藤原北家の祖となった。その後、房前は行基と志度を訪れ、母の追善供養に堂宇を増築し、寺の名前を「志度寺」と改めた。子を思う母の話は能の「海人(あま)」に仕立てられ、広く知られるようになる。
志度寺の山号は補陀落(ふだらく)山で、観音菩薩が降臨する霊場のこと。東アジアの海岸に栄えた観音信仰が古代、海人によって伝えられたのであろう。志度は瀬戸内海航路の要衝で、藩主の生駒親正や松平頼重は志度寺を支援することで信心する人々の支持を得、統治を効果的に進めてきたのである。
志度寺が観音霊場から四国霊場へと変わったのは、弘法大師の大師信仰が盛んになった戦国時代終わりから江戸時代にかけて。とりわけ明治以降、藩の支援が断たれると、収入の多くを遍路者からの喜捨に頼るようになる。そのため、補陀落の山号を残しながら、四国霊場の札所として大師信仰を前面に出すようになったのである。
大柴燈護摩供の参列者の中にはお遍路さんたちもいて、大師堂の前で般若心経を唱えていた。古くからの観音信仰と近世に盛んになった大師信仰が、志度寺では混然一体化して今に伝えられている。
(多田則明)