没後90年の頃には衰えていた高野山
地域で顕彰 小学校の道徳教材に
弘法大師空海の生誕1250年の今年、生誕地とされる香川県善通寺市の総本山善通寺などで記念行事が行われている。空海は真言密教の宗祖として知られるが、教えが今に伝わるのは「大師(だいし)信仰」によるところが大きい。その大師号下賜に尽力したのが空海と同じ讃岐生まれの僧観賢(かんげん)で、地元の小学校で郷土の偉人として学習に取り入れ、成果を挙げている。
空海は835年、62歳で亡くなるが、それは「入定(にゅうじょう)」であり、奥の院で瞑想(めいそう)しつつ諸国を巡錫(じゅんしゃく)し、衆生の救済に尽力しているというのが大師信仰で、高野聖(こうやひじり)が広めた。
「大師」は朝廷が高僧に贈る尊称で、866年に清和天皇が最澄(さいちょう)に宣下(せんげ)したのが最初。ところが、空海への宣下はない。没後90年の頃には高野山も衰え、惨状を目にした東寺長者の観賢は、真言宗を再興するには大師号を頂くしかないと考え、醍醐天皇に3度奏請(そうせい)した。
観賢は、空海が唐で筆録した『三十帖策子(さんじゅうじょうさっし)』を提出し、それを目にした天皇は、空海の苦労をしのび、もたらした恩恵の大きさに改めて驚いたという。弘法大師号下賜による真言宗復興の大役を果たした観賢は、地元では故郷の偉人として語り伝えられている。
観賢が生まれたのは853年、今の高松市西春日町。京都から来た僧理源に見いだされ、京都で出家・受戒する。仁和寺別当から弘福寺別当、東寺長者、醍醐寺座主、金剛峯寺(こんごうぶじ)検校(けんぎょう)を歴任し、般若寺(はんにゃじ)の創建など大きな足跡を残した。
空海に大師号を贈ることを決めた醍醐天皇は、夢で見た破れ衣の僧が空海だと思い、新しい衣装を用意した。その衣を手に観賢と弟子の淳祐(しんにゅう)が弘法大師号の報告に高野山の奥の院にある廟(びょう)を訪ねると、髪は膝に届くほど伸び、衣は灰のように朽ちている。観賢は剃刀(かみそり)で空海の髪を切り、新しい衣を着せた。
大業を終えた観賢がふるさとに帰ると、田植えの時期なのに、一人暮らしの年老いた母の田んぼには1本の苗も植わっていない。「明日は私も手伝いますから」と観賢は思い出話をし、2人は眠りにつく。翌朝、目を覚ました母が家の外に出ると、田んぼ一面に苗が植えられていた。母が眠った後、観賢は鬼神たちを使い、田植えをさせたという。
3年前、鶴尾小学校に赴任した田中義人校長は、恩師に「観賢賞を作らないか」と言われ観賢のことを知る。同校では、先々代校長が「観賢大徳御一代記」を総合的な学習の時間で学ぶ資料にし、先代校長の尽力で小学校の道徳教材『わたしたちのふるさと香川』に観賢の話が載っていた。「観賢を教材にふるさと教育ができる」と思った田中校長は、岡山大学が開発した「eラーニング」に観賢の話を使う計画を立てた。
高松市などからの助成金に加え、観賢の顕彰事業と学力向上事業を行う支援を地域の会社や団体、個人にお願いし、学習成果を挙げた子に「観賢賞」を出すことにした。地域の夏祭りに合わせた表彰式で、観賢に扮(ふん)した田中校長が観賢賞を児童たちに贈ると、大きな拍手が起こった。
観賢のことを教えるのは2年生の道徳からで、3年生は観賢山久米寺を訪ね、鶴尾校区コミュニティ協議会の植松邦浩会長から説明を受ける。今年、田中校長は小冊子『ふるさと鶴尾に産まれたかんげんさん』を作り、地元住民や関係寺院などに配っている。
観賢山久米寺は、1924年に高野山金剛峯寺と高松で盛大に行われた「観賢僧正一千年忌」で建設された観賢堂が始まり。植松会長と記者が今は無住の久米寺を訪ねると、婦人が花の手入れをしていた。仏教の教えは、お遍路さんへの「お接待」など生活倫理として暮らしに根付いている。
(多田則明)