『教行信証』集結で話題
坂東本・西本願寺本・高田本
(部分)(賛・裏書)蓮如筆室町時代(15世紀)京都・西本願寺(3月25日~4月2日展示).jpg)
過去最大 国宝11件、重要文化財75件
浄土真宗を開いた親鸞(1173~1262年)の生誕850年に当たる本年、浄土真宗各派寺院が所蔵する法宝物を一堂に集め、ゆかりの地、京都・東山の京都国立博物館で3月25日から5月21日まで親鸞展が開かれている。国宝11件、重要文化財75件を含む過去最大の出陳件数で、中でも親鸞の主著『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)は、坂東本・西本願寺本・高田本が初めて同時展示され話題になっている。
浄土真宗を開いた親鸞は、承安3(1173)年に京都で生まれた。9歳で出家し、比叡山で修行するが、29歳で山を下りる。参籠(さんろう)していた六角堂での夢告により東山吉水にいた法然のもとで、すべての人が平等に救われるという阿弥陀仏の本願念仏の教えに出合い、法然の弟子となった。
(部分)覚如賛専阿弥陀仏筆鎌倉時代(13世紀)京都西本願寺(5月2日~5月4日展示).jpg)
ところが、比叡山延暦寺から敵視された法然教団は弾圧に遭い、法然は四国に流罪となり、親鸞も還俗(げんぞく)させられ罪人として越後に流される。5年後に罪が赦(ゆる)された親鸞は、42歳で関東に赴いて布教に励む。62歳の頃に京都に戻った親鸞は、晩年まで『教行信証』や「和讃」など多くの著作を執筆し、90歳でその生涯を終えた。
本展は7章から成り、第1章は「親鸞を導くもの―七人の高僧―」。親鸞が拠(よ)り所とした阿弥陀仏とその救いを説く浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)、教えを自身に伝えたインド・中国・日本の7人の高僧を紹介する。
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第2章「親鸞の生涯」では、親鸞没後33年に当たる永仁3(1295)年に、ひ孫の覚如が編纂(へんさん)した最初の親鸞伝である伝記絵巻「親鸞伝絵」などにより、誕生から往生、墓所を改め仏閣とした大谷廟堂の成立までを追想する。
第3章「親鸞と門弟」では、現存する有力な門弟の坐像、法脈の相承を、絵像を連ねて示す高僧連坐像や一流相承系図により紹介する。
第4章は「親鸞と聖徳太子」。比叡山を下りた親鸞は、聖徳太子が創建したとされる六角堂へ百日参籠し、95日目の明け方の夢に、本尊の如意輪観音と同体で、聖徳太子の本地とされる救世観音(ぐぜかんのん)が現れ、「修行者が前世の因縁によって女性と一緒になるならば、私が女性となろう。そして清らかな生涯を全うし、命が終わるときは極楽に生まれさせよう」とのお告げを受けた。この夢告により法然上人に入門したことが、大正10(1921)年に西本願寺の宝物庫から発見された親鸞の妻・恵信尼の手紙で明らかになった。
第5章「親鸞のことば」では、『教行信証』の現存唯一の自筆本「坂東本」にある多数の加筆・修正から、親鸞の倦(う)むことのない思索の跡がうかがえる。
第6章は「浄土真宗の名宝―障壁画・古筆―」。「弟子一人ももたず」とした親鸞だが、その教えは多くの人を魅了し、各地で門流が形成され、戦国期には教団として発展、教えに関わる法物や名宝が生まれ、それらの美術的価値も高く評価されている。
第7章は「親鸞の伝えるもの―名号―」で、名号とは仏・菩薩(ぼさつ)の称号。浄土真宗の本尊には、阿弥陀仏の姿を表す木像・絵像の他に、その名前を漢字で記した「名号」があり、八字名号「南無不可思議光仏」、六字名号「南無阿弥陀仏」などが親鸞直筆も含め伝わっている。これらを親鸞は「阿弥陀仏が人々を救済するためのはたらきそのもの」だとし、それを称(たた)える口称念仏を説いた。
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)で始まる親鸞作の「正信偈(しょうしんげ)」は、正しい信心を偈(うた)の形にしたもの。関東で無学な農民たちに布教するようになった親鸞は、幼少期に祖父から聞いた今様に倣い、歌うように易しく教えを語る「和讃」を始めたとされる。小学生時代に祖母から教えられたその調べは、今も記者の心に懐かしく残っている。
(多田則明)