約4万4千社の八幡宮の総本社 宇佐神宮

神仏習合のさきがけ

聖武天皇の仏教立国を支える

宇佐神宮

地方の神から全国的な神へ発展

大分県宇佐市にある宇佐神宮は全国に約4万4千社ある八幡宮の総本社で、通称は宇佐八幡。古代から伊勢神宮と共に朝廷に崇敬されていた。宇佐神宮が祀(まつ)る八幡神は、新羅(しらぎ)から宇佐に渡来した氏族の神が、地元の大神(おおが)氏、辛嶋(からしま)氏、宇佐氏の氏神と合わさって成立したとされる。

その一地方の神がどうして全国的な神へ発展したのだろうか。

古代、豊国(とよのくに)と呼ばれた九州北部は大和朝廷の軍事最前線で、九州南部の先住民である隼人(はやと)と対峙(たいじ)し、西北には大和と対立する筑紫があった。八幡神はそのような政治・軍事情勢の中で出現し、大和による隼人征討の過程で軍神となっていく。「八幡」は唐の軍制の「八幡・四鉾」の八幡(八流のはた)に由来し、八幡神は共同体の神から国家的な神へと変貌したのである。

松飾りが立てられた参道

都が藤原京から平城京に遷(うつ)った710年の10年後、九州南部で隼人の反乱が起こり、朝廷は大伴旅人を将軍に任命し討伐に向かわせた。宇佐で徴兵された兵士も参戦し、戦いには勝ったが、その後、宇佐八幡は「殺生の罪を犯して苦しんでいるので、仏に救ってほしい」との託宣を出す。恐らく、当地の僧たちがそう語ることで、それまでの神道にはなかった「罪」と「救い」の思想を日本にもたらしたのである。

宇佐八幡の神職を務めていた三つの氏族はそれぞれ氏寺を持っていた。神が仏に救いを求める先例は新羅にあるので、それに倣ったとされる。

弥勒寺跡

宇佐八幡はそのための神事として、捕らえた魚を池に放す放生会(ほうじょうえ)を行った。これを契機に、神と仏が習合する先進的な思想が成立し、宇佐神宮は日本における神仏習合の源流となったのである。

宇佐での神仏習合を考える上で注目されるのが、7世紀の末ごろに建立された虚空蔵寺と法鏡寺で、両寺の関係者は隼人征伐にも加わっていた。

また、放生会では、下毛郡(大分県中津市)の古要社と上毛郡(福岡県吉富町)の古表社が傀儡子舞(くぐつのまい)を奉納している。さらに田川郡(福岡県香春町)からは香春岳の銅で作った鏡が奉納されているので、銅鉱のある香春岳(かわらだけ)に新羅渡来の技術集団が住んでいたことが分かる。

宇佐神宮の史料によると、725年に同宮を現在の小倉山に移した際、その東に弥勒(みろく)禅院が、737年にはそれを社殿の西に移して金堂・講堂が、それぞれ建立されている。これには聖武(しょうむ)天皇の援助があり、かつては聖武天皇の勅願寺の「弥勒寺」も建てられていた。新羅統一の力となった弥勒信仰が古代国家づくりの日本に導入されたのである。弥勒寺は明治初めの神仏分離で廃寺になり、今は遺構が残っている。

八幡神が全国の神になったのには、聖武天皇の悲願である大仏造立を助ける託宣を出したのが大きい。仏教による国造りを目指しながら、その道筋を探しあぐねていた聖武天皇は、渡来人が住む河内にある知識寺で大きな盧遮那仏(るしゃなぶつ)を見て、それが民衆の喜捨によって造られたのを知り、望みを見いだす。さらに宇佐神宮の託宣に力を得て、「一本の草、ひとにぎりの土でも」と民に協力を呼び掛ける詔を出したのである。やがて東大寺を総本山に全国に国分寺が整備され、仏教立国は着実に進んでいった。

大仏の守護神となったことで八幡神は地方神から国家神となり、後に平安京を守る石清水八幡宮に勧請(かんじょう)された。さらに源氏の氏神となって鎌倉に鶴岡八幡宮が建てられ、以後、御家人たちの氏神として全国に広まったのである。

宇佐神宮に始まる放生会は石清水八幡、鶴岡八幡でも行われ、鎌倉に入った日蓮が鶴岡八幡宮で所蔵の大蔵経を学んだように、明治の神仏分離までは神仏習合が普通の形であった。

(多田則明)

spot_img
Google Translate »