京都府笠置町を歩く 山岳信仰の聖地・笠置山

弥勒菩薩の磨崖仏を本尊とする笠置寺

表面が剥離し光背の形が残る弥勒磨崖仏

平安時代に最盛期迎える

東大寺初代別当・良弁も修行

京都府最南端の笠置(かさぎ)町、奈良市に接する標高300㍍未満の笠置山は全山が広葉樹に覆われ、麓には木津川が流れている。春は桜、秋は紅葉が人気の行楽地だが、古来からは山岳信仰の聖地で、山頂近くにある巨大な弥勒菩薩(みろくぼさつ)の磨崖仏(まがいぶつ)が本尊の笠置寺(かさぎでら)がある。

仏教におけるメシア思想とも言える弥勒信仰は古代インドで生まれ、中国、朝鮮を経て推古天皇の時代に日本にもたらされた。一種のユートピア思想で、末法思想が流行した平安時代に最盛期を迎えた。笠置寺参りの皇族や貴族が増え、藤原道長も参詣している。

胎内くぐりの岩

笠置寺の開基は大友皇子(おおとものみこ)もしくは大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇)とされ、律令国家の形成と並行している。『今昔物語集』には、山と寺の由来が次のように説明されている。

笠置山で鹿狩りをしていた大友皇子は、断崖で立ち往生してしまった。鹿は断崖を越えて逃げ去り、馬は断崖の淵で身動きできない。そこで皇子が山の神に「助けてくれたら、この岩に弥勒仏の像を刻む」と誓願すると助かった。大友皇子は目印に笠を置いて帰り、これが笠置の地名の起こり。

大師堂

東大寺の開山で初代別当の良弁は笠置山の洞窟にこもって修法を行い、その功徳で木津川の舟運を妨げていた河床の岩を掘削できた。聖武(しょうむ)天皇が今の木津市に恭仁(くに)京(きょう)を構えたのも、難波との舟運のよさからだ。

笠置山には龍穴(りゅうけつ)と呼ばれる奥深い洞窟があり、その奥は弥勒菩薩の住む兜率天(とそつてん)に通じているとされていた。龍穴で修行していた良弁の弟子の実忠がある日、龍穴の奥に進むと兜率天に至った。兜率天の内院四十九院をめぐった実忠が、そこでの行法を持ち帰ったのが東大寺のお水取りだという。

山頂から木津川を見下ろす

山門をくぐると本坊、毘沙(びしゃ)門堂(もんどう)、鐘楼(しょうろう)などの奥に一周約800㍍の山道に沿って修行場がある。修行場には「胎内くぐり」「蟻の戸渡り」「ゆるぎ石」などと名付けられた岩が点在し、途中に本尊の弥勒磨崖仏や正月堂(弥勒磨崖仏の礼堂)、石造十三重塔、虚空蔵菩薩磨崖仏、後醍醐(ごだいご)天皇行在所(あんざいしょ)跡などがある。山頂にも巨岩があり、そこから木津川を見下ろす風景は絶景。険しい岩場には足を掛けるために石を穿(うが)った跡もあり、山岳修行の歴史が刻まれている。

笠置寺は歴史的に東大寺や興福寺などと関係が深く、藤原信西(しんぜい)の孫で興福寺で出家した貞慶(じょうけい)は、僧の堕落を嫌って笠置寺に隠遁(いんとん)し、住持となっている。貞慶は般若台や十三重塔を建立し、弥勒信仰を深めた。鎌倉時代以降の笠置寺は、鎌倉新仏教に対抗する南都旧仏教の復興を図る拠点としても栄え、最澄と歴史的な論争をした法相宗の徳一(とくいつ)も、東北に赴く前に同寺で修行している。

石造十三重塔

天皇親政を目指す後醍醐天皇は1331年8月、鎌倉幕府打倒のため京の御所を脱出して笠置山にこもり、挙兵した。「元弘の乱」である。天皇を支えたのは山伏や真言僧、そして楠木正成ら悪党たち。しかし、幕府の討伐軍に攻められ同年9月に敗退し、後醍醐天皇は「承久の乱」の後鳥羽上皇のように隠岐島に流された。この戦で磨崖仏は表面が剥離してしまう。

その後、笠置寺は廃れたが、江戸初期、笠置一帯が津藩藩主・藤堂高虎の領地になると、2代藩主藤堂高次は寺領を寄付し、弥勒堂を再建。その後、尊皇思想の高まりで笠置山は後醍醐天皇ゆかりの地として有名に。

明治9年、地元の地主・大倉一族出身の大倉丈英和尚が入山し、笠置寺を復興。大倉和尚が真言僧だったことから同寺は真言宗智山派に属し、山号は鹿鷺山(しかさぎさん)になった。

酒屋「笠置屋」を創業した大倉一族が同寺を支援し、明治38年に月桂冠を銘柄名とした笠置屋は、社名が昭和19年に大倉酒造に、62年に月桂冠(株)となる。

(多田則明)

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