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大坂冬の陣 まさかの戦死 佐竹藩家老の書状/秋田県立博物館

慶長19(1614)年、大坂冬の陣で、佐竹藩(秋田県)の家老が命を落とした。その名は、渋江政光(しぶえまさみつ)、享年41歳。

彼は下野国(しもつけのくに)(栃木県)の生まれだが、父親の主君が豊臣秀吉の小田原征伐の際に抵抗し16歳で浪人となった。しかし才能を見込まれ、常陸国(茨城県)の大大名・佐竹義宣(よしのぶ)に仕えることに。20歳で佐竹家の重臣だった渋江氏の家督を相続した。

関ヶ原の戦い後、秋田に転封された佐竹義宣は家中の改革を断行し、政光は29歳という若さで家老に抜てき。久保田城築城や検地制度、農林業など藩政改革に携わり義宣の片腕的存在となった。

しかし一通の手紙が彼の意外な運命をおぼろげに示す。秋田県立博物館で開かれている「新着・収蔵資料展」(4月2日まで)に、政光の書状の写しがある(写真、下に解読文の一部)。平成27年に寄贈されたものを同館が解読した。慶長19年10月、大坂冬の陣に向け、江戸から国元に向け出兵を指示したものだ。

解読文によると、幕府の陣触れが藩主のもとに達し軍勢が招集されたので、侍と足軽80人を江戸に上らせるよう指示した内容である。政光は、江戸まで軍勢が上るだけで済むだろう(和睦となる)と楽観的な見込みを記している。

政光は義宣指揮下の兵と大坂に出陣し、11月26日の「今福の戦い」に臨む。壮絶な戦いに直面し、狙撃されたか流れ弾に当たるかして戦死したのだった。

(伊藤志郎、写真も)

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