沖縄県が事前に自粛要請

米軍が宮古島市の下地島空港で1月末に予定していた訓練を中止した問題で、県が「屋良覚書」や「西銘確認書」を根拠に、訓練の自粛を求めていたことがこのほど明らかとなった。人道支援や災害救援を目的とした「習熟飛行」訓練を認めなかった県の姿勢に対して県民からは疑問視する声が上がっている。(沖縄支局・川瀬裕也、写真も)
「屋良覚書」「西銘確認書」根拠に
「人道支援」目的認めず
米海兵隊は1月13日、普天間飛行場所属のCH―53などのヘリコプター4機について、人道支援・災害救援を目的とした習熟飛行訓練で31日に下地島空港を使用するため、県に「空港使用届書」を提出。届け出を受けた県は18日、海兵隊に対し、緊急時以外の使用を自粛するよう口頭で要請した。これを受け、海兵隊は「県に拒否されたため見送ることにした」と発表する流れとなった。
下地島空港は沖縄本島と台湾のほぼ中間に位置する飛行場で、12日に開かれた日米安全保障協議委員会(2プラス2)では、自衛隊と米軍が演習などを通して空港・港湾の「柔軟な使用」を進めることで一致したばかりだった。
米軍は日本の空港を無料で使用できるなどと定めた日米地位協定があり、県は届け出を拒否することは難しいため、自粛要請にとどめた形だ。県がその根拠として示したのが「屋良覚書」と「西銘確認書」だ。
屋良覚書は復帰以前の1971年、琉球政府(当時)の屋良朝苗主席が下地島空港を民間機以外が使用しないことを確認し、国と交わしたもので、同空港の利用方法は琉球政府(復帰後は県)が決定するものとしている。西銘確認書は復帰後の79年、西銘順治知事(当時)が人命救助などのやむを得ない事情を除き、(同空港を)民間機の使用に限定することで国と合意したものだ。
玉城デニー知事は24日の定例記者会見で、この件について「県と政府間で独自の協定、それに準ずる確認が行われている」とした上で、「この(屋良)覚書と(西銘)確認書で確認されていることが、双方の共通した考え方であると、繰り返し堅持しておきたい」と語った。
台湾海峡を中心に南西諸島の安全保障環境が緊張感を増す中、米海兵隊が申請した訓練の目的は「人道支援・災害救援」だった。このニュースを知った50代の県民(団体職員)は「軍事利用と一言に言っても、県民の命を守るための訓練であれば県は内容を精査して許可するのが当然ではないか」と語気を強めた。
玉城知事は今後も、米軍に対し、緊急時以外(同空港を)使用しないよう求めていくとしているが、緊急時に円滑な活動を行うための訓練まで禁止すれば緊急時の対応に大きな支障が生じる恐れが残る。安全保障上の懸念が拭えない状況が続きそうだ。
玉城知事を支持する革新勢力は、軍備増強の動きを警戒する。2013年にMV22オスプレイの普天間飛行場への配備撤回と、辺野古への移設中止を求める「建白書」が安倍首相に提出されてから10年となる28日には、米軍および自衛隊の配備に反対する人々が県庁前に集まり、「軍拡反対」などと叫びながら国際通りをデモ行進した。
那覇市で初の国民保護訓練
弾道ミサイル攻撃想定

那覇市は1月21日、国と県による共催の「国民保護訓練」の一環として、弾道ミサイルの攻撃を想定した初の住民避難訓練を、同市銘苅のなは市民協働プラザで実施した。
午前10時にミサイルが飛来したことを知らせるアラートが鳴ると、約100人の参加者は、消防団員や警察官らによる誘導で同施設の地下駐車場へと避難。地下駐車場ではミサイルが上空を通過するまでの間、柱や壁沿いに屈(かが)み込み、頭を守る姿勢をとった。
訓練に参加した40代男性は、「いざという時に命を守るために、とても有意義な訓練だった」と振り返る。
2人の子供と共に参加した30代女性は、「今回は地下駐車場がある設定だが、実際に暮らしている家の近くに地下施設がないので不安」とシェルター不足の現状を指摘した。
一方、会場周辺には訓練に抗議する人々の姿も見られた。「日本を戦場にするな」「戦争訓練許さない」などと書かれたプラカードを掲げ、訓練の中止を訴えていた。集まった人々は訓練が始まるとメガホンなどを片手に「戦争訓練やめろ」「軍拡よりも外交努力」などと声を上げた。
この光景を見た参加者の男児らが「ミサイルよりも(抗議集会をする)大人の方が怖い」と漏らす場面もあった。
訓練後、知念覚市長は「おおむねスムーズに避難行動ができた」と評価し、ミサイル有事が起きないよう努力することは大前提だとした上で、「訓練も両輪で進めていかなければならない」と語った。