スターリンが中国共産党の毛沢東、劉少奇と謀議して指示してきた内容を日本共産党として主流派も分派も一致して確認したのが、1951年10月の「第5回全国協議会」(5全協)で採択された新しい「51年綱領」である。そこで「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成しうると考えるのは間違いである」とし「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」とする軍事方針が打ち出された。
中央軍事委員会(九つの地方軍事委員会)や山村工作隊、中核自衛隊(約8千人、500隊)などの非合法テロ組織を次々と結成。金日成の指令で地下に潜っていた「赤い朝鮮人」と呼ばれた在日朝鮮人からなる祖国防衛隊(約3万人)とも連携し、朝鮮戦争における米軍の出撃と補給を担う日本の攪乱(かくらん)を目的とした。当時、共産党の監視担当だった警察関係者は「特に天皇制に反対し日本の朝鮮支配に恨みを持っていた朝鮮人の暴力行為は残虐を極めた」と語った。
52年7月30日深夜10時頃、山梨県曙村(現身延町)の山林地主佐野嘉盛方を党員と山村工作隊員10数人が襲撃した。
「佐野を人民裁判にかけ封建制を打破する」との名目で竹槍、棍棒(こんぼう)などを所持して就寝中の佐野の妻、女中、さらに東京から避暑のため来ていた14歳、12歳の姪と9歳の甥が寝たままの姿で頭部をめった打ちにされ額は大きく割られ血の海の中に呼吸も絶え絶えの状態になったという。共産党の暴力行為が素朴なへき村の人たちを恐怖のどん底に陥れた代表的な事件である。
埼玉県小川町では同年8月7日、元衆院議員・横川重次宅を西部地区軍事委員会傘下の西部遊撃隊および武蔵野独立遊撃隊、東大消費組合、地元グループの14人が襲撃した。
目的は党資金を得るため。日本刀や短刀で横川氏の首、肩、腹、腰などを切り、また突いて瀕死の重傷を負わせた。複数の女中や長男なども襲い金庫を物色。“世なおし団”と自称したが、事件自体は「警察のデッチあげ」と宣伝活動を行った。
しかし、襲撃の秘密文書が発見され、綿密な実行計画だったことが判明したのである。現在、横川宅の住人はおらず、近くに住む女性は「共産党の起こした怖い事件ですよね」として記憶していた。
52年1月21日夕刻には札幌市警察本部警備課長の白鳥一雄警部が、札幌市内での勤務を終えて自転車で帰宅途中、共産党札幌委員会所属の軍事組織である中核自衛隊の隊員によりブローニングけん銃で背後から実弾2発を発射され1発が左胸部をえぐり即死した。周到な計画による犯行だったが共産党は「暴力団による犯行」との偽情報を大量に流し捜査を妨害した。主犯格の二人は中国に逃亡しそこで死亡したと見られているが、公式な確認が取れず、時効停止で日本最古とされる逮捕状が今も更新され続けている。
共産党が52年の1年間だけで起こした事件の数は261件ある。山村工作隊事件(栃木県金田村農村工作隊事件など)、騒擾事件(皇居前メーデー事件、吹田・大須事件など)、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車両襲撃事件のほか東大ポポロ事件などだ。このうち、拳銃、火炎ビン、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙ビン、硫酸ビンの投てきなどの武器を使用したのが71件、検挙・起訴された者は1600人余りに上る。
当時のマスコミには、「メーデーの流れ暴動化す 皇居前広場 警官隊と大乱闘 日共の計画的騒擾」(毎日新聞52年5月2日付)「怖るべき〈うき戦術〉ばくろ 目指す相手は必ず暗殺」(同6月7日付)などと、猛悪な本性を露(あら)わにした共産党の蛮行を伝える報道があふれた。
ところが、党史「日本共産党の八十年」は、「これらの活動に実際にひきこまれたのは、ごく一部の党員で、しかもどんな事態がおこっているかの真相は、これらの人びとにさえ知らされないままでした」とし、「徳田・野坂分派の活動」によって「党と革命の事業に大損害をあたえました」と宮本らは被害者の立場で総括しているのである。(敬称略)
(日本共産党100年取材班)
【連載】日本共産党100年 第2部 警戒解けぬ「革命集団」(1) 暴力破壊闘争 | The Sekai Nippo DIGITAL (worldtimes.co.jp)
【連載】日本共産党100年 第2部 警戒解けぬ「革命集団」(2) 非合法テロ組織 | The Sekai Nippo DIGITAL (worldtimes.co.jp)
【連載】日本共産党100年 第2部 警戒解けぬ「革命集団」(3) ヘロインの密売 | The Sekai Nippo DIGITAL (worldtimes.co.jp)
【連載】日本共産党100年 第2部 警戒解けぬ「革命集団」(4) 破防法調査団体 | The Sekai Nippo DIGITAL (worldtimes.co.jp)