洪水被害者の慰霊と警鐘
ハザードマップの想定区域とほぼ重なる

庶民の拠り所 地蔵信仰
防災史上も興味深い研究対象
異常気象のせいで線状降水帯によるゲリラ豪雨に襲われ、各地で洪水被害が発生するようになった。
国や自治体、NHKではハザードマップを作成し、居住地の洪水被害の可能性を知っておくよう啓蒙(けいもう)に努めている。とりわけ河川流域に住む人たちには深刻な問題で、歴史的にいろいろな対策が図られてきた。宗教絡みの一例が四国にある。
徳島県を流れる吉野川は何度も氾濫し、大洪水を起こしている。本州の利根川、九州の筑後川、四国の吉野川は、手に負えないわんぱく三兄弟に例えられ、坂東(ばんどう)太郎、筑紫(つくし)次郎、四国(しこく)三郎と呼ばれてきた。その吉野川の下流域に高さが1㍍以上もある台座に地蔵像を据えた「高地蔵(たかじぞう)」が約190体あり、その分布は県が作成したハザードマップの洪水浸水想定区域とほぼ重なっている。

高地蔵が立てられた時期は、寛保から明和に至る江戸中期(1740~70)、享和から天保に至る江戸後期(1800~40)、安政から慶応に至る幕末期(1850~70)に集中している。吉野川流域では江戸時代の万治2(1659)年から慶応2(1866)年の200年間に、約100回もの洪水が発生しているからだろう。
高地蔵が立てられた理由としては、慰霊や道しるべ、船着き場の表示などで、台座が高い理由については「洪水によってお地蔵さんが水に浸かったり流されたりするのは申し訳ない」という地元の人々の信仰心からなどの諸説がある。
高地蔵は、吉野川の下流・徳島平野に分布し、吉野川の南側と北側の地域で比較すると、海抜がより低い南側に多い。最も古い1707年の高地蔵は徳島市沖洲にあり、最も高い高地蔵は、徳島市国府町の「うつむき地蔵」と呼ばれるもので、地面から地蔵の頭の上までは4㍍以上になる。見上げると優しくほほ笑み掛けていた。

徳島文理高等学校・郷土研究部が行った調査によると、吉野川の流域全体には高地蔵が279基もあるという。川の流域を注意深く歩くとあちこちに見つかり、これほど多くの高地蔵があるのは吉野川だけで、防災史の上でも興味深い研究対象になっている。
明治以降も洪水は頻発し、明治44年の「土佐水」と呼ばれる洪水では、死者21人、行方不明6人、住宅全壊164戸、大正元年の大洪水は「水嵩田の面上一丈(3㍍)、湖水の浸水5尺(1・5㍍)、3日3晩屋根の上で水の引くのを待った」などと記録されている。
本格的な改修工事が始まったのは明治40年からで、工事の概要は①藩政期に造られた第十堰(ぜき)に樋門(ひもん)を設置することによる旧吉野川の付け替え、②別宮川を改修して吉野川本流とする、③市場と川島にまたがる善入寺を全島買収し遊水地化する、④江川の締め切り、というもの。
この第1期改修工事が完成するのは昭和2年で、以後は支川や派川流域や遊水地帯での内水被害の対策が続けられている。
地蔵はインドの地神(じじん)が仏教に取り込まれたもので、日本には浄土教とともに奈良時代に入ってきている。盛んに信仰されるようになったのは平安時代からで、昼間は朝廷の官僚を務めながら、夜は地獄に下りて閻魔(えんま)大王の実務を担当していたという小野篁(おののたかむら)の活躍時期と重なる。篁が地獄に行ってみると、生前の罪のため苦しんでいる人たちを、地蔵菩薩が救っていたというのだ。
そこで、絶望的な地獄に落ちても、お地蔵様が救ってくださるという地蔵信仰が生まれた。
いつも苦しむ庶民と共にあるとの地蔵信仰が、洪水犠牲者の供養と警鐘という、徳島の高地蔵を生んだのであろう。信仰における人々の創造性の一例として興味深い。
(写真と文・多田則明)