安倍晋三元首相の憲法改正への挑戦は、第1次政権から目指す「戦後レジームからの脱却」の一丁目一番地であり、戦後の日本を揺るがしてきた護憲(革新・左翼)勢力との国の将来を懸けた闘いだった。
それは2006年9月1日、自民党総裁選出馬時に発表した政権構想に「新たな憲法の制定に取り組む」と明記した時から始まる。総裁選に勝利し戦後生まれで初の首相となった安倍氏は、最初の所信表明演説(同26日)では、与野党の議論の深まりを願い、改正手続きに関する法律案の早期成立への期待を表明する、抑えたトーンだったが、憲法公布60年(同年11月3日)を目前にした米英メディアとの会見では、「時代に合わない条文として一つの典型的な例は9条」「私の(自民総裁)任期は3年で、2期まで務めることができる。その任期中に改定を達成したい」と改憲への強い意思を表明した。
実際に安倍氏は07年早々に憲法改正を夏の参院選の争点にすると表明し、同年5月には一気に国民投票法を成立させた。しかし、危機感を抱いた護憲派が強い影響力を持つ一部野党やマスコミの総反撃に遭って参院選で敗北し、持病の悪化のため失意のうちに退陣。その後、自民も衆参ねじれに苦しむ中で民主党に政権を奪われ、野党に転落した。
12年12月、「日本を、取り戻す」として首相に返り咲いた安倍氏は、戦後レジームからの脱却を一瀉(いっしゃ)千里に進めた第1次政権の反省に立ち、民主党政権時に沈滞した経済の再生、悪化した日米関係の回復に向けて全力を注ぐ中で国民の信頼を徐々に取り戻し、国政選挙で6連勝。13年参院選で衆参ねじれを解消し、14年末の衆院選と16年7月の参院選の勝利によって、連立与党を含む「改憲勢力」が衆参両院で改正原案発議に必要な3分の2以上の議席を占めるまでになった。
安倍氏は満を持して17年5月3日、改憲派集会のビデオメッセージで、最大の争点となっている9条について「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」考えを示し、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明した。9条全面改正がベストではあるが、「加憲」を主張する公明党にも配慮し、次善の策を選んだのは、安倍氏の改憲に向けた執念に基づく「政治の技術」と言えるものだ。
これを受けて自民党は18年3月、難産の末に「自衛隊の9条明記」を含む4項目の改正条文イメージを決定し、衆参両院の憲法審査会での実質討議に向けた準備を完了した。しかし、ここでも「安倍政権での改憲には反対」という立憲民主党や共産党が公職選挙法の改正内容を国民投票法に盛り込むだけの改正を徹底して引き延ばし、実質審議を回避。コロナ禍によって20年の東京五輪も21年に開催が延期され、安倍氏の令和の新しい日本創りに向けた20年の改憲構想は実現できないまま、再び持病の悪化などで退陣に追い込まれた。
しかし、令和初期までそれに言及するだけで閣僚が辞任に追い込まれるほどタブー視されていた憲法改正を堂々と政権の中心テーマに据え、大きな挫折を経ながらも具体的な改憲の道筋を拓(ひら)いた安倍氏の功績は大きい。退任後も積極的に改憲の旗振り役を務めていたがその最中に凶弾に倒れた。
その生きざまは、自らが願った「闘う政治家」(ここ一番、国家のため、国民のためとあれば、批判を恐れず行動する政治家)に他ならない。そういう意味で、安倍氏は国と国民のため自らの信念に殉じたのだ。静かに冥福を祈りつつ、その遺志を引き継ぐ「闘う政治家」の出現を心から願う。
(武田滋樹)
(終わり)