猫神さん お松大権現を訪ねる

主人の恨み晴らした三毛猫

村人らによって守られた伝説/徳島県阿南市

鳥居前の大きな招き猫

1万体を超える招き猫

合格祈願に参拝する人が多数

トラはネコ科なので、寅(とら)年にちなみ猫の神社に初詣しようと1月に訪れたのが、徳島県阿南市加茂町にある神社・お松大権現(阿瀬川寛司社主)。単立の宗教法人お松権現社が設けた神社で、親しみを込め「猫神さん」と呼ばれている。

鳥居前、大きな招き猫に迎えられ、境内に入ると、いろいろな姿の猫だらけ。合格や勝負事の祈願に参る人が多く、願いがかなったお礼に納められた招き猫は1万体を超えるという。

信者が納めた大量の招き猫

お松の話に引かれた切り絵画家・宮田雅之による作品十数点を修復し、展示する新築の伝承の館が8月16日に開館したと聞き、20日、再訪した。

同社の背景にあるのは、有馬(福岡)、鍋島(佐賀)と並ぶ日本三大怪猫伝の一つ。

江戸時代初めの天和、貞享(じょうきょう)年間(1681~86)加茂村(現・阿南市加茂町)は不作続き。庄屋の西惣兵衛は村民の窮状を救うため、所有の田5反を担保に、近在の富豪野上三左衛門から金を借りた。

阿瀬川寛司社主

返済期限が近づいたので、通りがかった三左衛門に金を返すが、出先のため証文は持っておらず、受け取れないままに。やがて惣兵衛は病死し、妻のお松は何度も証文を返すよう求めたが、三左衛門は応じない。そればかりか、金は受け取っておらぬと言い、担保の5反地まで取り上げた。

思案の末、お松は奉行所に訴え出るが、三左衛門から賄賂を受け取っていた奉行の越前は、美しいお松に食指を動かそうとさえする。奉行の意に応じなかったお松に下された裁きは、一方的なものだった。

死を決意したお松は、貞亨3(1686)年正月、藩主の行列に直訴し、同年3月15日、直訴の罪で処刑された。死の直前、お松は寵愛(ちょうあい)していた三毛猫に遺恨を話したという。その後、三左衛門と奉行の家に化け猫が現れ、異変が続くようになり、両家は断絶する。

伝承の館の内部

お松の埋葬に関わった近くの真言宗太龍寺(四国八十八か所第21番札所)の僧は、彼女に義理大権現の神号を授け、境内に祠(ほこら)を設け供養した。夫の墓所に埋葬されず、離れた地に埋葬されたのは、神格(権現)としての計らいから。寺なのに神としたのは、神仏習合の伝統による。

その後、お松を祀(まつ)る祠は庄屋の敷地に遷(うつ)され、村人らに秘(ひそ)かに守られてきた。明治、大正を過ぎ、昭和初期に、この伝承に興味を持った旅芝居の「春子太夫一座」が芝居に仕立て、興行したところ喝采を博し、徳島だけでなく香川や高知をはじめ各地で演じられるようになる。映画化の話もあったが、戦争で中止になったという。

大正時代の末、徳島市長が祠に祈願して当選した礼に社殿を寄付し、そこに祠を収めたのを機に、名称も「義理大権現」から「お松大権現」に改称。信者の寄付により、やがて拝殿も完成し、今日の姿になった。庄屋11代目の阿瀬川社主は、「社殿も伝承の館も信者さんの力でできたものです」という。お札を作るようになったのも昭和になってから。

お松の霊を慰めるためにと、信者がかわいがっていた猫の像を納めるようになり、身近にあることから招き猫が増え、今日の「猫神さん」になったのである。伝説の起源が土地の訴訟だったことから、勝負事に勝つようにと祈る人が増え、それが合格祈願につながり、いわゆる受験戦争の時代に受験生の参拝客でバスが満員になり、素足でお百度を踏む人もいたという。現代の民俗宗教としても興味深い。

伝承の館には、宮田画伯によるお松の物語の切り絵のほか、庄屋に伝わる古文書やお松の系図などが展示されていた。

(多田則明)

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