梅原猛の『海人(あま)と天皇』

古代の国づくりの主役・藤原不比等

藤原氏と海人伝説に共通性

志度寺にある海女の墓

大和王権の成立に関与

和歌山の道成寺と香川の志度寺

梅原猛の『海人(あま)と天皇』(朝日文庫)は副題に「日本とは何か」とあるように、日本という国の成り立ちを、その根本思想から問い直したもの。

冒頭、自身の思想遍歴が語られている。当初、西洋哲学を研究していた梅原は35歳の頃、それは靴の上から足をかくようなもので、日本や東洋の文化的風土の中にこそ、人類の将来に必要な思想があるのではないかとの直観から、日本研究に道を変えたという。そこで探究したのが7~9世紀の古代日本の国づくりであった。

志度寺

その主役を藤原不比等(ふひと)とする梅原は、藤原氏と海人との関わりを、和歌山県日高川町の道成寺に伝わる「かみなが姫」の話を基にひもといている。

髪長姫は藤原不比等の長女宮子のことで、その美しさから不比等の養女に迎えられ、後に文武天皇の夫人となって首(おびと)皇子(後の聖武(しょうむ)天皇)を産む。しかし産後、心を病み、息子の天皇と対面できたのは36年後のことだった。道成寺は、文武天皇が宮子の願いを受け創建したという。

道成寺

それと似た話が、記者の住む香川県さぬき市の志度寺(四国霊場86番札所)に伝わっている。それが「海女の珠取り」で、不比等の妻になり、房前(ふささき)を産んだ志度の海女が、命と引き換えに龍神から失われた宝珠を取り戻したというもので、同寺境内には海女の墓がある。

2018年10月、新羅琴が出品された第70回正倉院展を見て春日神社近くの宿に泊まった翌朝、近鉄奈良駅まで興福寺境内を歩いていると、「興福寺中金堂再建落慶記念特別展示 邂逅―志度寺縁起絵巻」の看板が目に入った。「海女の珠取り」が描かれているのが同絵巻で、「その内容は興福寺中金堂本尊・釈迦如来像に関る伝承で、興福寺と因縁深い作品。今秋、中金堂の落慶に伴い、志度寺縁起絵が特別公開される」と書かれていた。予定を変更して9時の開館を待ったのは言うまでもない。

その伝説の概略は……。

不比等が父鎌足の供養のため興福寺を建立した時、唐の高宗皇帝の妻になっていた妹が宝珠を日本に送った。船が瀬戸内海の志度の沖へ差し掛かった時、海が荒れ、船が難破しそうになったので、龍神の怒りを鎮めるため宝珠を海に投げ、危機を脱す。

それを聞いた不比等は、姿を変え宝珠を探しに志度に行ったが見つからない。そのうち、不比等は若い海女と親しくなり、男児をもうけ房前と名付けた。たびたび海を眺めている理由を妻に聞かれた不比等は身分を明かし、宝珠の話をした。すると海女は「宝珠を取り戻したら房前を世継ぎにしてくれるか」と問い、不比等が同意すると海に飛び込んだ。

海女は海底で宝珠を取り戻したが、龍神に追われたので、乳房を短刀でえぐって宝珠を隠し、命縄を引く。縄を引き上げると、宝珠は乳房から出てきたが、海女は死んでしまう。

不比等は、海辺に墓と堂宇を設けて「死度道場」と名付け、宝珠を興福寺の本尊釈迦如来の眉間に納め、約束通り房前を都に連れ帰り、世継ぎにした。後に房前は、行基を伴って墓参し、堂宇を増築し「志度寺」と改めた。

前掲書に海人についての記述はほとんどないが、舟運が主流の古代、豪族たちと海人が密接な関係にあったのは明らかで、水田稲作の技術を伝播(でんぱ)したのも海人だ。私が注目したのは壬申の乱で宗像(むなかた)氏が大海人(おおあま)皇子を助けたことで、大和王権の成立にも重要な役割を果たしたに違いない。

(多田則明)

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