歌人木俣修の在仙3年 宮城県仙台市

教え子たちの手による歌碑

焼失前の仙台城旧大手門=仙台市青葉区まちづくり推進課提供

青葉山中腹の仙台城大手門(国宝)は、国内有数の雄大な規模を誇ったが、第2次大戦の戦火で失われてしまった。その内側、今は東北大学理学部の敷地に、滋賀県生まれの歌人で国文学者の木俣修(1906~83)の歌碑が立っている。

蔦(つた)かづら朱(あか)くもみづる城跡に百舌(もず)は高鳴く夕さりくれば(歌集『みちのく』)

この歌碑は、昭和47年、宮城師範学校の教え子たちの手によるものだ。ふつう、作品と碑の場所が一致していないのが多いが、この碑は、この辺りを散策する人にとって、共感を与えてくれている。

彼の来仙は、昭和6年、彼が25歳の時だった。東京高等師範学校を卒業し、若い教師として赴任した。すでに、北原白秋の短歌会「香蘭」に加わり、歌人としての誇りを持っていた。

「若い情熱をふりしぼって語りかけることのよろこびが、生きる力を滾(たぎ)らせていた…私は教師というよりも、兄貴分とでもいうような思いが深かった」(『仙台回想』)

当時、仙台には小宮豊隆、山田孝雄などがいて、大いにこの地で学んだ。一方、小学校の教師を集め会合をつくったが、当局から弾圧を受けて解散、やがて昭和9年、富山高校に転任する。

生来浪漫的な詩質を持つが、妻や長男の死、戦後の経験など人生の悲苦を重ねるなかで、人間主義的な志向を強めていった。

(市原幸彦)