「大安寺のすべて 天平のみほとけと祈り」展
外国僧も集う学問寺

三論宗中心 南都七大寺の一つ
去る4月23日から6月19日まで、奈良国立博物館で「大安寺のすべて 天平のみほとけと祈り」展が開かれた。飛鳥時代から奈良時代は日本という国の青年期で、中国・朝鮮から入ってくる仏教や学問を旺盛に学び、吸収していた。その象徴が奈良市にある大安寺(河野良文貫主)で、わが国最古の官大寺(国立寺院)だ。
今は高野山真言宗だが、奈良時代には三論宗が中心の学問寺で、南都七大寺の一つ。かつては、26万平方メートルの広大な境内地に七重塔2基をはじめ90余りの堂棟が並び、千人もの学僧の中には、インドやベトナム、中国の僧に平安仏教を興した最澄と空海もいた。彼らは大安寺から華厳経(けごんきょう)を学びに東大寺へ、法相宗(ほっそうしゅう)を学びに薬師寺へと通い、当時の主要寺院は大学の学部のようであった。
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大安寺は、聖徳太子が平群(へぐり)(現大和郡山市)に建てた熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)がその草創とされる。病床の太子が田村皇子(後の舒明(じょめい)天皇)に、熊凝精舎を本格的な寺院にするよう告げ、舒明天皇は百済川のほとりに初の官寺として百済大寺を建てた。それが天武天皇の時代に藤原京の高市に移され高市大寺となり、さらに大官大寺と改称され、平城京遷都に合わせ現在の地に移り、大安寺となった。当時は薬師寺と雄を競い、東大寺、興福寺と並ぶ大寺院で、仏教の総合大学の様相を呈していたという。
大安寺の山号は三論学山で、かつては元興寺(がんごうじ)と共に三論学の中心寺院だった。三論とは、インドの龍樹(りゅうじゅ)の「中論」「十二門論」と、その弟子提婆(だいば)の「百論」のこと。般若の「空」を教理の根幹とし、極めて哲学的な考究をするのが特徴。教学を大成したのは隋の吉蔵(きちぞう)で、その教えを受けた高句麗僧の慧灌(えかん)が、625年に日本に伝えた。

難解な三論宗は次第に敬遠され、唯識(ゆいしき)の法相宗が好まれるようになったが、三論宗の系譜から育ったのが最澄と空海である。最澄の剃髪(ていはつ)の師は近江の国師として赴いていた大安寺の行表(ぎょうひょう)で、後に最澄は大安寺で法華経の講義をしている。空海は大安寺の勤操(ごんそう)あるいは戒明(かいみょう)に記憶力を飛躍的に高める虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を学んでいる。
聖武(しょうむ)天皇が授戒の導師になる高僧を招こうと唐に派遣したのも、大安寺の普照(ふしょう)と興福寺の栄叡(ようえい)で、長安に達した二人は、インド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)やベトナム僧の仏哲、中国僧の道璿(どうせん)などの渡日を実現させた。
二人はさらに楊州の大明寺に鑑真を訪ね来日を要請、鑑真は5度、渡航に失敗しながら12年後、ようやく来日を果たした。その間、鑑真は失明し、栄叡は病死、普照だけが鑑真の一行25人と共に帰国した。鑑真は754年に東大寺大仏殿に戒壇を設け、聖武・孝謙天皇をはじめ僧など400人余に戒を授け、日本仏教の根幹を正した。
その後、大安寺は時代の変遷とともに衰微し、現在境内は最盛期の4%しかないが、近年は「癌(がん)封じの寺」として信仰を集めている。大安寺のホームページを開くと「南都七大寺・癌封じ祈願」と書かれている。1月23日に営まれる光仁天皇の御忌法要(ぎょきほうよう)「光仁会」は別称「癌封じささ酒祭り」で多くの参拝者でにぎわう。
天智天皇の孫の光仁天皇は62歳で即位し、70歳すぎまで在位し、当時としては破格の高齢。天皇が白壁王と称した若い時代、たびたび大安寺を訪れ、竹で酒を温めて飲む「林間酒を温める」風流を楽しんでいた。それが光仁天皇の長寿につながったとされ、竹の酒の薬効で悪病、難病が封じられたという話が生まれたという。
「癌封じ」となったのは、がんが現代における悪病の最たるものだから。6月23日の法要では、祈禱(きとう)後に青竹に入れて温められたささ酒が「笹娘」から授与される。今はコロナ禍で略式になっているのでご注意を。
朗報は、奈良文化財研究所の監修により、最盛期の大安寺天平伽藍(がらん)のCG復元が完成し、現在、堂内で公開されていること。奈良時代の学問熱が、閉塞(へいそく)感漂う今の日本に刺激を与えてくれそうだ。