多摩川上流が『大菩薩峠』舞台に

作家・中里介山の故郷、羽村市(東京都)

羽村市郷土博物館に展示された「中里介山の世界」OLYMPUS DIGITAL CAMERA

文才育んだ佐々黙柳の教育

小説『大菩薩峠』で知られる中里介山(本名弥之助、1885~1944)の故郷は東京都羽村市で、玉川上水の取水堰(しゅすいぜき)に近い多摩川河畔(かはん)で生まれた。近くには介山の墓のある禅林寺もある。介山が少年時代に遊んだ多摩川のほとりを散策し、生い立ちや名作の舞台を振り返ってみた。

JR青梅線羽村駅から多摩川目指して南に下って行く。旧鎌倉街道に出合ったり、「馬の飲み水場」の史跡があったりして、古い面影が残っている。途中には禅林寺があり、墓地からは多摩川の景色が遠望された。

玉川上水に架けられた羽村橋を渡り、中州を越えると多摩川。上流には羽村取水堰があり、玉川上水と多摩川に分かれる。

この辺りの景色は実に素晴らしい。山間を流れてきた川はここから平野部となって開ける。介山はこう記した。「これは/わがふるさとである/前の丘陵は/秩父山脈の余派で/その下を/流れてゐる川は/多摩川である/多摩川も此処で/堰かれて/上水となって/江戸以来の/帝都の人の生命/となる」(『峠』第一号)

上流の沢井には『大菩薩峠』の主役の一人、机竜之助の父親が門弟を教えていた剣道場が設定されており、さらに上流にある御岳山は竜之助が門前試合で宇津木文之丞を倒した場所。もっと先に行くと大菩薩峠に至る。

この長大な小説の最後は、元旗本の駒井甚三郎が船を造って仲間と太平洋に出て、島で植民地をつくる物語だ。多摩川の下流を眺めれば、この川は太平洋に注ぐ。

中里家は立派な農家だったが、少年時代に土地を失って没落し、一家は都会に流亡。父弥十郎は変人と言われ、家業は妻ハナに任せて、当時流行した賭将棋をする遊び人。寝てばかりいたともいわれる。その結果、田畑まで人手に渡ってしまうが、その変人ぶりは、竜之助の人格を構成するモデルの一人になったらしい。

小学校を出た介山は、電話交換手や代用教員をしながら家族を支え、独力で勉強を続け、正教員の資格まで取った努力家。英語、美学、哲学まで体系的な学問を心掛けていた。

小学校卒業の前後、12、13歳の頃から勉強を教えてくれたのは、元加賀藩士の佐々黙柳先生で、弥十郎に断って自宅に引き取り、特訓をした。まき割りや飯炊きをしつつ、忠君愛国の教えを受け、国史略、十八史略、源氏物語、太平記、徒然草、竹取物語などを読み、少年雑誌も愛読した。恐るべき文才はこの頃形成されたのだ。

多摩川の南岸に羽村市郷土博物館がある。その一室は「中里介山の世界」に当てられ、自筆原稿や著作、書、肖像写真などが展示され、その生涯を紹介している。

介山は1906年に都新聞に入社。13年『大菩薩峠』を都新聞に連載し、21年には良い執筆環境を求めて高尾山麓に草庵を結んだ。ここでは近くに隣人学園、隣人道場という教育機関をつくって児童を育てるが、ケーブルカー架橋工事が始まったことで去る。

その後、奥多摩に移り、羽村に移るが、児童教育と農業への情熱は失わず、羽村では先祖伝来の土地を買い戻して畑を取得。奥多摩の道場と草庵を移築して、塾教育と農業経営を一体化させた西隣村塾を1930年に開校。

このような生活は、『大菩薩峠』の「椰子林の巻」に見られるユートピア思想とも共通していたのだ。

(増子耕一)