私財なげうち半生注ぐ

「秋田文化史上の輝き 深澤多市―郷土研究と真澄研究の偉業」

『秋田叢書』18巻を出版

深澤多市の肖像画(右)と彼の半生を紹介する企画展=秋田県立博物館

大正時代後半から昭和初期にかけ、私財をなげうち、郷土秋田の貴重な古書資料を全18巻の『秋田叢書(そうしょ)』として出版した人物がいる。深澤多市(ふかさわたいち)(明治7年~昭和9年)である。秋田県立博物館(秋田市)で開催中の企画展「秋田文化史上の輝き 深澤多市―郷土研究と真澄研究の偉業」では、遺された膨大な資料から約250点を厳選し、その半生を紹介している。

多市は60歳でこの世を去るが、膨大な深澤多市旧蔵資料が、遺族から令和2年6月に同館の菅江真澄(すがえますみ)資料センターに寄贈された。約2年の整理期間を経ての展示となった。

寄贈資料は書簡類だけでも1万通を超える。展示では、秋田叢書の原稿や、学問の基礎となった漢詩文に関わる資料、郷土研究の成果を示す刊行物、新聞のスクラップ、自ら謄写版(とうしゃばん)(ガリ版刷り)で使った鉄筆も展示。

13歳の頃から漢文学を学び始めた多市は、年齢の別なく多くの仲間と交流し、漢詩文や書の高い素養は、古文書を読みこなす力となった。

30歳の頃日露戦争に従軍。秋田県史の編纂(へんさん)を経て、宮城県と京都府から招かれ役人となり、2年間は京都府熊野郡長を務める。

大正10年(47歳ごろ)に両親の希望で帰郷するが翌年、自宅が火事に。長年にわたって集めた書籍や自身の記録類がすべて灰燼(かいじん)に帰す。これを機に、多市は研究成果を多くの新聞に発表し、基礎となる古書を公刊することにした。

それが『秋田叢書』で、先行する仙台叢書と南部叢書を意識。出版で儲(もう)けは出さないとの確固たる思いを持ち、個人で秋田叢書刊行会を組織し、予約会員を全国から募った。当初は790人、811冊の申し込みがあったが、結果的には多市が私財をなげうつ事業となる。6冊の刊行時点で、横手町名誉助役だった多市の立替金は年俸の2年分にもなった。印刷と出版が行われた東京では、甥(おい)の国本善治の献身的な協力が特筆される。

本巻12冊と、菅江真澄集6冊を交互に刊行。菅江真澄の著作は、土地の歴史や文化、自然環境を図絵付きで記録しているが、原文はくずし字で句読点がない。多市の漢詩文などの素養によって現代文となった功績は大きい。

昭和46年から未来社『菅江真澄全集』が刊行されたが、その底本となった『秋田叢書』は図絵が大きく見出しがあり今でも貴重だ。同展は7月3日まで。

(伊藤志郎)