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三輪山信仰における神仏習合 自然を神としてきた日本人

特別展「国宝聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」

大和王権発祥の地/国造りの基礎に

三輪山

特別展「国宝 聖林寺十一面観音―三輪山信仰のみほとけ」が昨年は東京国立博物館で、今年は2月から3月にかけて奈良国立博物館で開かれた。聖林寺(しょうりんじ)の十一面観音立像は、明治20年に日本の文化財を調査したフェノロサがその美しさを称(たた)えたことで有名な第一級の国宝である。

同展は本来、東京オリンピック・パラリンピックに伴い文化庁が企画した、海外への日本文化紹介事業「紡ぐプロジェクト」の一環で、本来のタイトルは「聖林寺十一面観音菩薩像と三輪山信仰―日本人の自然観と造形美―」であった。つまり、狙いは世界の人たちに「日本人の自然観」を理解してもらうこと、そのための「三輪山信仰」の展示だったが、コロナ禍で開催が延期されたこともあり、十一面観音の「造形美」が前面に出た。そこで、改めて三輪山信仰に焦点を当ててみよう。

子持勾玉(大神神社提供)

三輪山信仰が重要なのは、当地が大和王権発祥の地だからで、ここで出雲系神話と大和系神話が統合され、天照大神を皇祖とする天皇家の物語が始まる。それに合わせたかのように、中国・朝鮮から仏教が渡来したため、当時の日本人は基層信仰(自然信仰)としての神道に合わせて普遍宗教である仏教を受容し、それを古代の国造りに利用した。その過程で生まれたのが神仏習合・神仏混交という宗教形態で、ヨーロッパに広まったキリスト教が土着のゲルマン信仰などを排除したのとは対照的だ。

興味深いのは、基層信仰との習合により仏教そのものが変容したことで、その典型が「山川草木悉皆仏性(さんせんそうもくしっかい)」の本覚(ほんがく)思想である。そのため、南アジアのテーラワーダ仏教からは「日本の仏教は仏教ではない」とよく批判される。

禁足地出土土器(大神神社提供)

しかし、釈迦(しゃか)の理想は日本で実現されたのではないか。例えば、釈迦が目指した平等な社会は、日本で比較的に実現され、悟りによる輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)も、空海の「即身成仏」によって達成された。しかも、仏教立国の古代国家が今に生きている。そうした宗教現象の始まりが三輪山信仰と言えよう。

江戸時代まで、聖林寺の十一面観音は三輪山をご神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)の本尊であった。大御輪寺は元は大神寺(おおみわでら)と称した奈良時代の最古級の神宮寺で、平安時代に天台宗の末寺になり、鎌倉時代に真言律宗の西大寺中興の叡尊(えいそん)が復興して西大寺の末寺になって、中世以降は三輪神道の拠点として栄えた。

大神神社

日本人の自然信仰の展示としては、大神神社から禁足地とその周辺から出土した子持勾玉(まがたま)や禁足地出土土器、祭祀(さいし)遺跡の山ノ神遺跡出土の土器模造品(5世紀前半)、朱漆金銅装楯(しゅうるしこんどうそうたて)(国指定重要文化財)、黒・朱漆塗高杯(しゅうるしぬりたかつき)、三輪山絵図、乾漆像(かんしつぞう)断片などが出展されていた。自然そのものを神としてあがめてきたのが日本人の基層信仰で、三輪山には古くから信仰されてきた磐座(いわくら)がある。

神仏習合の代表事例は、福井県の氣比(けひ)神宮や三重県の多度(たど)大社の神宮寺のように、神が仏教への帰依を願う「神身離脱」だが、十一面観音は東大寺造仏所で造られ、大御輪寺に招来された可能性が高い。仏教広布のために既成の神が利用されたのである。それに関与したのが天武天皇の孫の文室浄三(ふんやのきよみ)で、浄三は鑑真によって出家得度し、東大寺の造営と寺務を監督する大鎮(だいちん)を務めている。

その後、衰退した大御輪寺を鎌倉時代に復興したのが、空海の系譜にある叡尊である。伊勢神宮に参拝した叡尊は、三輪の神と伊勢の神は同体で、その本地が大日如来であると悟り、それが三輪流神道の成立につながる。三輪流神道では、鎌倉時代初めに造営された大神神社の神宮寺・平等寺を拠点に、江戸時代まで神仏習合の儀礼が営まれていた。

千年以上続いた神仏習合を一変させたのが明治初めの神仏分離だが、それは一時的なことで、神と仏は今でも伝統的な家庭の多くで同居している。

(多田則明)

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