沖縄県は今年5月15日で祖国復帰から50年を迎える。戦後の解釈では第2次世界大戦ばかりが注目される。戦後史に詳しい麗澤大学客員教授の西岡力氏は冷戦勝利史観を唱え、米軍基地を残したままの返還は沖縄を共産主義陣営から守った重要な判断だったと評価する。(沖縄支局・豊田 剛)

韓台は返還による安保弱体懸念
沖縄県の玉城デニー知事を支える県議会与党は、5月15日の日本復帰50周年の節目に合わせて、沖縄の復帰は県民が願った形ではなかったとアピールする県民大会の開催を検討している。開催予定日は、サンフランシスコ講和条約が発効した4月28日の翌日、今月30日で、那覇市の運動場で開く方針を固めている。
県政与党には、知事が復帰50周年に合わせて建議・宣言を発表するが、その前に県民大会を開き、県民世論を喚起しようとの狙いがある。沖縄の革新勢力は、日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約について、沖縄が日本から切り離された「屈辱の日」と認識している。共産や社民など与党各会派は、大会で米軍に対する抗議の意思を打ち出し、今後50年に向けた沖縄の展望を県内外にPRする大会にすべきだと意気込んでいる。
果たして、サンフランシスコ講和条約は沖縄にとって屈辱的な出来事だったのか。
「日本は共産主義と戦う自由民主陣営に入るためにサンフランシスコ講和条約を結んだ。その際、沖縄の施政権を与えざるを得なかった。沖縄は台湾と朝鮮半島に近く、戦いの第一線をアメリカは欲した。その中で戦争をしないで領土が返ってきたことは世界の歴史の中でほとんど前例のないことだ。これが祖国復帰だ。沖縄は日本文明を一緒につくってきた」
西岡氏は3月31日、沖縄県豊見城市で開かれた講演会でこう述べた。沖縄復帰当時の状況について、「台湾も日本も赤化される懸念がある中で、日米同盟を結び、占領軍を同盟軍に変えた。その時、より自由に使える沖縄の基地の施政権を米国に与える選択をした」と説明した。アジアにおける冷戦、文明の敵である全体主義、共産主義と戦うために基地を残したというのだ。
佐藤栄作首相は1965年、戦後初めて沖縄を訪れて「沖縄が復帰しない限り戦後は終わらない」という有名なコメントを残した。ただ、西岡氏によると、「復帰には台湾と韓国が反対した。沖縄に核がなくなったら攻められるという理由」からだ。
69年5月1日に行われたニクソン大統領と朴忠勲副首相の会談では、沖縄返還が重要なテーマの一つになった。日本貿易振興機構(JETRO)が70年に発行したアジア動向年報によると、「韓国における米軍撤退論とともに、沖縄の日本返還決定も韓国にとってないがしろにできない不安を投げ掛けていた」と指摘。韓国政府は「沖縄の米軍基地は施政権の返還とは関係なく、アジア地域の安全保障のための軍事基地としての価値が継続、維持されるよう、慎重に処理されなければならない」と要望し、日本政府は「原則的に了承する」と伝えたとされる。ただ、外務省筋はこれを否定している。
70年ごろから沖縄で広がっていた復帰反対運動について、西岡氏は「沖縄に戦略的に軍事基地があることに価値があると分かっていたから、共産主義が反対した。どちらの陣営につくかという戦いだった」と解説した。
沖縄の復帰から30年後の91年にソ連が崩壊し、自由陣営が冷戦を勝利したことについて、「沖縄の基地負担の結果があって第1次冷戦に勝った」と西岡氏は評価。日米安保条約を結んだ日本も勝った側の陣営に入る。ところが、左翼言論などの影響で「戦っていたという意識がなかった」という。しかし実態は、「沖縄は基地の負担に耐え、共産主義という敵と戦い、その結果、台湾と韓国が赤化されなかった。沖縄は被害者ではなく、冷戦に勝ったのだ」(西岡氏)。
西岡氏は、「日本は、人権、民主主義、市場経済、法の支配という普遍的価値観を信じて闘うことを選び、実現してきた。アジアにおける普遍的価値観の普及には日本の貢献は大きい」と強調した。その上で、「歴史戦を考えるには冷戦を見ないといけない」と強調。「戦後」について考えるとき、第2次世界大戦が終結した45年に固定すべきではないとし、「冷戦勝利史観」を提唱した。
西岡氏に言わせると、現代は、排他的民族主義(ファシズム)を主とする全体主義国家、中国共産党、ロシアとの闘い、すなわち第2次冷戦の状況にある。だからこそ、「沖縄の基地は必要だ。さもなければ沖縄が排他的民族主義国家の支配下に入ってしまう」と警鐘を鳴らしている。