あさま山荘事件50年、「前衛党の組織論」を問題にせぬ甘い各紙論評


共産党もリンチ査問

共産主義集団が革命資金を得るために銀行を襲い、武装闘争に挫折するとアジトに立てこもって同志をリンチ査問し、死に至らしめる―。

共産党の脅威は今もなお変わらない。

こう書けば、読者は50年前の連合赤軍事件だと思われるだろう。連合赤軍とは共産同赤軍派と日本共産党左派・神奈川県委員会(いずれも日本共産党の分派)が合体した組織で、1970年代初めに銀行・郵便局を襲い、山岳アジトで「総括」と称し同志14人を殺害、揚げ句の果てにあさま山荘事件を引き起こした。72年2月のことだ。

が、冒頭の話は、連合赤軍事件の40年前の32年にコミンテルン(国際共産党)から武装闘争の指令を受けた日本共産党のことだ。革命資金を得るため東京・大森の川崎第百銀行を襲撃(同年10月6日)、捕縛の手を逃れた党幹部らは東京・幡ヶ谷のアジトで、同志を査問し「輪番リンチ」にかけ、小畑達夫・党中央委員を死に至らせた(同12月24日)。首謀者は宮本顕治氏(後の委員長)で、リンチに加わった袴田里見氏(後の副委員長)は「宮本が殺(や)った」と証言している(『週刊新潮』78年2月2日号)。

戦後の50年代には不破哲三・元議長も査問された。当時、東大細胞(支部)の幹部だった安東仁兵衛氏は「不破の顔が(殴られ)変形してきたが、手は緩められるどころか激しくなった」(『戦後日本共産党私記』現代の理論社)、「査問は宮本派中央の直接指示によるもので『スパイは殺してもいい』って指示がきた」(『朝日ジャーナル』76年2月20日号)と述べている。

不破氏は生き残り、書記局長に抜擢(ばってき)されると(70年)、今度は査問する側に回った。全学連元委員長で民青中央委員だった川上徹氏は東京・代々木の党本部の一室に2週間も閉じ込められ査問を受けた。「(社会主義国なら)間違いなく自分は銃殺刑に処せられていた」と川上氏は述懐している(『査問』筑摩書房)。

指導部がすべて決定

共産党も連合赤軍と同じことをやっており、リンチ査問は共産主義の所産といってよい。毎日16日付「論点」で植垣康博・元連合赤軍兵士は「(事件の原因は)大衆運動や革命を指導する前衛党の組織論だ。指導部がすべてを決定し、下部は絶対服従するというロシア革命以来の考え方である。この組織論が、ソ連や中国、カンボジアなどで粛清や虐殺を起こした。私たちも、規模は違えど同じ過ちを犯した」と語っている。

植垣氏はあさま山荘事件直前に逮捕され、8人の殺害に関与したとして懲役20年の判決を受け、98年に出所している。氏の指摘からすると、新聞の論評はいかにも甘い。

読売17日付文化面は漫画家、社会学者、批評家を登場させ、「閉じた関係の中 命と言葉が逆転した。その瞬間はどこでもある」「殺人への連続線上にいないと断言できるか」「砂粒化する青年らの焦りと孤独」などと分析しているが、どれもピンとこない。

在京紙で唯一、東京が社説を掲げたが(「政治熱冷ます蛮行越え」18日付)、呆(あき)れたことに「『暴力革命』を訴え、銃砲店や交番を襲撃した連合赤軍メンバーに対してすら、日本社会の一部の層などが抱いた一種の共感」と左翼運動への郷愁を語り、「(リンチ殺人で)若者の政治離れは一気に進んだ」と嘆き、「文学、芸術、ジャーナリズムなどあらゆる領域で、半世紀前の陰惨な記憶を乗り越え、政治と若者の関係性を編み直すような試みが求められる」と書く。

左翼に入れ込む東京

とんまな社説だ。事件後、一気に進んだのは若者の左翼離れだ。それを「政治離れ」とするのは独り合点だ。「政治と若者の関係性を編み直す」とは新たな左翼運動を起こせとでも言いたいのか。東京がいかに左翼に入れ込んでいるか、いみじくも露呈させた。

各紙に回顧モノはあったが、「前衛党の組織論」を問題にする新聞は、毎日の「論点」を除き、皆無だった。思想オンチか、それとも前衛党(日本共産党)への配慮か、物足りない限りである。
(増 記代司)

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