【連載】台湾海峡は今 有事は起こるか〈2〉澎湖諸島からの報告(下)

400年変わらぬ戦略的価値

台湾・澎湖諸島の最大都市、馬公市の中心街を対岸に望める蛇頭山で同諸島の歴史について語る張弘光氏(早川俊行撮影)

【連載】台湾海峡は今 有事は起こるか〈1〉 澎湖諸島からの報告 上

台湾・澎湖諸島の最大都市、馬公市の中心街から車を30分ほど走らせると、対岸から馬公の街並みを望める蛇頭山に着く。その高台から右手に視線を向けると、海軍艦艇が数隻停泊しているのが見える。日本統治時代に建設された軍港は、今なお台湾防衛の重要拠点として欠かせない役割を果たしている。

「澎湖の重要性は今に始まったわけではない。何世紀も前から認識されてきた。それを示すのがこの蛇頭山だ」

こう話すのは、台湾中央通信社モスクワ特派員や澎湖時報社長などを歴任し、現在は地元情報誌「貝傳媒」を発行する張弘光氏(63)だ。列強各国が澎湖を重要視した歴史を今日に伝える碑が三つあるとして案内してくれた。

一つ目は、日本統治時代の1908年に沈没した軍艦松島の慰霊碑だ。日清・日露戦争で活躍した松島は馬公港に停泊中、火薬庫が爆発し、艦長を含め220人以上の船員が死亡。多くの遺体が流れ着いたこの場所に慰霊碑が建立された。痛ましい事件だが、日本が澎湖を台湾海峡の要衝と位置付けていた過去を伝えるものだ。

日本統治時代の1908年に沈没した軍艦松島の慰霊碑(早川俊行撮影)
軍艦松島の慰霊碑は対岸の馬公市中心街を見詰めるように立っている(早川俊行撮影)

二つ目は、フランス軍兵士の慰霊碑。1884年に起きた清仏戦争で、フランスは澎湖の占領に成功し、軍港建設を目指すが、艦隊を率いていたクールベ提督をはじめ兵士約1000人が風土病にかかり亡くなってしまうのだ。

フランス軍兵士の慰霊碑(早川俊行撮影)

三つ目は、オランダの要塞(ようさい)がこの地にあったことを伝える碑だ。オランダ東インド会社はバタビア(現在のジャカルタ)から艦隊を派遣し、1622年に澎湖を占領、台湾では初となる西洋式要塞を築く。だが、明朝軍との交戦で劣勢となり、澎湖から撤退して台湾本島に移る。ここから台湾は38年間のオランダ統治時代に入るが、その発端は実は澎湖にあったのだ。

オランダ、フランス、日本と、各国は澎湖諸島が持つ高い戦略的価値を認識し、軍事拠点化を試みたのである。「こうした歴史的経緯から、台湾有事では澎湖が真っ先に攻撃されることも考えられる」。張氏は指摘した。

オランダの要塞がかつてこの地にあったことを伝える碑(早川俊行撮影)

米国も澎湖の重要性に注目し始めている。米国の対台湾窓口機関、米国在台協会(AIT)台北事務所のサンドラ・オウドカーク所長(大使に相当)は昨年5月、澎湖の基地司令部などを訪れた。台湾メディアによると、AIT所長が澎湖を公式訪問したのは10年ぶりだという。

その5カ月後の同年10月には、AITが共催する災害救助講習が馬公の国立澎湖科技大学で開かれ、オウドカーク氏が再び島を訪れている。講習は地震や台風など自然災害への対応強化が表向きの理由だが、中国の軍事侵攻に備えた民間防衛訓練が本当の狙いだったことは間違いない。

その証拠に、あいさつしたオウドカーク氏は「講習で身に付けたレジリエンス(回復力)は、次の津波や土砂崩れに備えるだけでなく、台湾の安全保障に直接貢献することになる」と明言。「そのスキルや精神的レジリエンスは将来の挑戦を抑止し、抵抗するのを可能にする特性だ」と強調したのだ。

ウクライナ国民の抵抗がロシアの軍事侵攻を食い止めているように、台湾人のレジリエンスを高めることで中国に侵攻を思いとどまらせたい――。講習にはそんな米国の思惑も込められている可能性が高い。

小さな島嶼(とうしょ)群でありながら、400年前から大国間の競争の荒波にさらされてきた澎湖諸島。今は米中の熾烈(しれつ)なせめぎ合いの最前線に立っている。

(台湾澎湖県馬公にて、早川俊行)

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