1980年5月、韓国南西部の光州市で民主化を求めて起きた軍事政権に対する蜂起を政府軍が武力で鎮圧しようとした過程で多くの市民が犠牲になったいわゆる光州事件。韓国では半世紀近くたった今でも軍事政権に対する全人格的な非難が正論とされ、事件を巡る言論の自由が封じ込められるなど、聖域化されている。このほどある韓国の民間団体がそうした事件に対する見方を見直そうという新たな歴史戦を始めた。(光州=韓国南西部、上田勇実)
■踏まれる「碑石」

今月上旬、光州市北東端にある「国立5・18民主墓地」を訪れた。
5・18とは光州事件が勃発した日付から取ったもので、軍事政権に反対して逮捕された野党政治家・金大中氏が大統領在任中だった2002年に国立墓地に昇格した。広大な敷地には犠牲者の墓をはじめ各種造形物や関連施設が点在する。その中でも目を引いたのは、正門を入って左手奥にある「歴史広場」にずらりと並ぶレリーフ壁だった。
そこに描かれていたのは、奥から時系列に従い壬辰倭乱(16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵)、東学農民運動(1894年)、3・1独立運動(1919年)、光州学生独立運動(1929年)、4・19革命(1960年)、光州事件(1980年)。
これらに共通するのは「反日」であり、「不正と暴圧に対する民族の不屈の抵抗精神」(同墓地パンフレットより)だ。これらが韓国史の主要な出来事であるのは間違いないが、大韓民国の建国や北朝鮮の南侵で始まった朝鮮戦争はここには存在しない。多くは光州がある全羅道で起きた出来事だ。
レリーフ壁の最後は、朝鮮半島の統一を喜ぶ人々の姿を描いた「統一広場」。ここを訪れた子供たちは韓国の歴史をどう捉えるだろうか。「日本憎し」「軍事独裁を続けた保守派憎し」を善しとし、「独裁国家・北朝鮮に対する一方的な融和」を受け入れようとするのではないか。そう思わずにはいられなかった。
同墓地を見学する際、職員から足を運んでほしいと言われた場所があった。旧墓地の管理棟近くの歩道に埋め込まれた碑石だ。両端が欠けていたが、ハングルで「全斗煥大統領閣下ご夫妻 民泊村」と記されている。
1989年、別の場所からここに持ち運ばれたといい、通り過ぎる人が踏みつけるようにわざわざ歩道の真ん中にあった。革新系の有力政治家たちが同墓地訪問の際にこの碑石を踏む姿がメディアで報じられることもしばしばある。
保守系政党の代表や有力議員の多くは同墓地に足を踏み入れることすら難しく、参拝できてもひざまずいて首を垂れる「謝罪式」が少なくない。
保守政治家やメディアは弱腰
■綱領に「光州解放」

しかし、こうした光州事件を巡る偏った見方や行き過ぎた解釈に物申す人たちが現れた。今年4月、李承晩元大統領の業績評価などに携わっていた歴史学者たちが中心となり、民間団体「新しい歴史国民運動」が発足した。その第一の綱領が「光州を解放しろ」だ。
同運動は、光州事件を「金大中という政治家が民主化運動の旗印の下、湖南(全羅道)の国民が歴史的に保有する被差別感情を政治利用し、この国の民主政治が地域政治の道具に変質する過程で発生した悲劇的事件」と位置付け、「蜂起で発生した人命損失は幾つかの偶然な要因が重なった結果であり、国家暴力が企画した虐殺だと定義するのは穏当ではない」と指摘。事件が「神聖化された現実」を放置すれば「国家アイデンティティーが崩れるほかない」と警鐘を鳴らしている。
同運動は7月に保守の牙城である大邱(南東部)、8月には国会でフォーラムを開催し、光州事件に対する再評価の必要性を訴えた。だが、タカ派で知られる保守系野党「国民の力」のある有力議員は参加を土壇場でキャンセルし、唯一参加した同党の李鎮淑議員はメディアなどから叩(たた)かれ、与党から除籍を求める声まで上がった。
また大邱の地元紙や保守系で最大手の朝鮮日報がフォーラムの案内や声明を盛り込んだ意見広告の掲載を拒否するなど、最初から波乱含みだ。そこからは事件を巡る論争に巻き込まれたくないという本音が透けて見え、多くの政治家やメディアも事件の再評価に弱腰だ。
同運動運営委員の一人、朱益鍾氏はこう述べる。
「韓国の建国、護国、富国の主役であるはずの李承晩氏、朴正熙氏、全斗煥氏という歴代保守系大統領を不義と断じて徹底的に叩き、光州事件を不義に抗拒した正義と見なして聖域化させるのは、左翼によるいわゆる〝歴史政治〟だ。私たちはいても無視される透明人間のような存在だが、左翼の〝歴史政治〟を是正させる、もう一つの〝歴史政治〟が私たちの運動だ」







