留学時代に2度も体験
閉塞感が漂っていた8年間

もうだいぶ前のこととなったが、4日早朝に知人から「韓国で非常戒厳令が発令されたが、6時間後に解除されたようだ」という連絡があった。
私は「ピサンケイオムリョン(非常戒厳令)」という言葉を聞いて、まさか1987年に民主化された韓国で今さら「戒厳令」が発令されるはずがないだろうと思っていたので、一瞬わが耳を疑ったが、「ケイオムリョン」という韓国語になぜか懐かしさもよぎった。
私は73年5月から81年末まで韓国の大学院に留学したが、この時期の韓国の政情は大いに荒れていた。留学した前年の72年10月17日に朴正熙大統領は突如「特別宣言」を発表し、この日の19時を期して、国会を強制的に解散するとともに、政党他による政治活動を禁止し、憲法の一部条項が停止されるとともに、韓国全土には非常戒厳令が宣布された。
公安から警告を受ける
朴正熙大統領は進んで11月24日に戒厳令下で国民投票を実施。12月17日には「維新憲法」と通称される、新たな憲法の成立を宣言した。維新クーデターとよばれる事件であった。
さらに留学したその年の8月に「金大中事件」が起き、翌74年4月に「民青学連事件」、8月に「文世光事件」が起きた。民青学連事件では日本人留学生とジャーナリストが逮捕された。この当時、韓国の大学院に留学している日本人は少なかったと思うが。この事件後、韓国の公安が私を訪ねて来て「あの留学生とは知り合いか(ソウル大学に留学していた早川嘉春さん。後にフェリス女学院教授)」と聞くので、私は他の日本人留学生たちとは付き合いがないと答えた。
すると「手帳を持っているか、出せ」と言うので手帳を見せると、ぺらぺらとめくって「確かに君の手帳にはそれらしきメモはないな」と言って、「今回の事件では捕まった学生や活動家たちの手帳から芋づる式に捕まえた。君はこれから手帳を持って歩かない方がいいよ」と、忠告ならぬ警告を受けた。
さらに留学生活も終盤の80年5月17日には全斗煥国軍保安司令官による「5・17」クーデターが勃発し、政権を掌握した。この日、文化広報部長官である李揆現が「5月17日24時を期して非常戒厳令を全国に拡大する」と発表し、その原因を「北朝鮮の動きと全国に拡大する騒擾(そうじょう)事態などのため」と説明した。
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続く5月18日1時、政府は戒厳布告第10号を戒厳司令官の名前で発表し、布告文で「79年10月27日に宣言した非常戒厳が戒厳法第8条規定により80年5月17日24時を期してその施行地域を大韓民国全域に変更したことにより、現在発効中の布告を次のように変更する」とした。
今回の尹錫悦大統領による戒厳令発令をマスコミは「44年ぶり」とか「45年ぶり」と報じたが、44年ぶりである。この布告では「マスコミの出版報道および放送は事前検閲を受けなければならない」「各大学(短大を含む)は当分休校措置」などが公布された。この措置により某大手新聞社は広告を得ることができず、新聞の広告欄が白紙の状態が続いた。
さらには「北傀(北朝鮮)と同じ主張および用語の使用禁止」の布告により、私の北朝鮮グッズや資料の蒐集(しゅうしゅう)は叶(かな)わなかった。それどころか、大学の某教授にマルクス経済学の本を貸したことがあるが「宮塚君、この本を借りたことをくれぐれも内緒にしてくれ」と言って、あたふたと本を返してきたことがあった。
この戒厳令発令により、言論人や大学教授は活動が制限され、アメリカなどに出国する人が増えた(私の修士課程の指導教授もその一人であった)。
「1日が20時間」の生活
約8年に及ぶ留学生活中、韓国社会は常に閉塞(へいそく)感が漂っており、特に午前零時から翌朝4時までの「夜間外出禁止令」によって1日が20時間の拘束された生活を余儀なくされた。だが、クリスマスイブやお釈迦(しゃか)様の誕生日、大晦日(おおみそか)にはこの禁止令が解除され、時間を気にすることなく嬉嬉(きき)としてこの一日を満喫していた韓国人の姿が忘れられない。
この「夜間外出禁止令」は82年1月5日に解除されたが、私はこの日を体験することはなかった。
(みやつか・としお)