
2018年4月、ベルギーの首都ブリュッセル。諜報(ちょうほう)機関である中国国家安全部の職員、徐燕軍被告は、米航空機エンジンメーカー「GEアビエーション」の研究者から航空機エンジンの機密情報を入手するため、カフェに向かった。しかし、待っていたのは連邦捜査局(FBI)が仕掛けた摘発作戦という「罠(わな)」だった。
徐被告は同僚とともに、ベルギー警察に逮捕された。同年10月に米国に引き渡され、22年に経済スパイ法違反などで懲役20年の判決を受けた。中国政府のスパイが訴追のため米国に身柄を引き渡されたのは初めてで、米国の対中スパイ対策史上、画期的な事件となった。
工作を仕掛けたのは、中国側だった。最初にGEアビエーション社の研究者のデビッド・チェン氏を中国の大学での講演に招待し、謝礼や旅費として3500㌦を支払った。チェン氏はGE社への事前報告を怠った上、輸出規制の対象となる資料を無断で持ち出した。
この事実を把握したFBIは、チェン氏に証拠を示し、「協力者」となれば起訴を免除すると告げた。こうして、チェン氏が機密情報を渡すふりをして、徐被告をベルギーに誘い出す「おとり作戦」が実行された。
この大胆な摘発手法は、米国が中国の経済スパイ対策に本気で臨んでいることを示した。
徐被告は13年から複数の米国航空関連企業を標的にした広範な経済スパイ活動に関与し、軍事・商用航空技術の入手を任務としていた。チェン氏から入手を試みた機密情報は、GEアビエーションが独自に開発した航空エンジン向けの「複合材ファンブレード技術」で、軍用航空機にも用いられる軍民共用技術だった。
中国が国家戦略として推進する「軍民融合」の主要な標的は米国である。FBIの試算では、中国による知的財産権侵害のコストは年間2250億~6000億㌦に上る。
米国で中国による国家ぐるみの経済スパイに国家安全保障の観点から危機感が急速に高まったのは、第1次トランプ政権の時だった。司法省は18年、中国の経済スパイ活動に対抗する「中国イニシアチブ」を立ち上げ、大学・研究機関・企業に対する監視を強化。特に人材獲得計画「千人計画」に関連した事件の摘発に重点を置いた。
同計画が問題視されたのは、参加者が米国の研究資金や設備を利用しながら、その成果を中国に持ち帰る例が相次いだためだ。
外国政府の利益を目的とした知的財産窃取を禁じる「経済スパイ法」違反となったものとしては、米GEパワー元社員のチョウ・シャオチン被告がガスタービンの技術情報などを不正に中国へ持ち出し、23年1月に懲役2年を言い渡された事件がある。千人計画から資金を受け取りながら申告せず、設計図などを中国のビジネスパートナーに送付しており、司法省は「中国政府と共謀」して行われた経済スパイ事件だとした。
MITテクノロジーレビュー誌によれば、中国イニシアチブの下、22年までに77件の事件で少なくとも150人が起訴された。しかしその一部は後に取り下げられた。学界などから中国系の人に対する人種的偏見との批判が上がり、当時のバイデン政権は同年、中国イニシアチブを終了した。一方で、対中防諜(ぼうちょう)体制の弱体化を懸念する声もあった。
第2次トランプ政権下で、中国イニシアチブを復活させる動きが強まっている。下院歳出委員会は9月、司法省内に中国のスパイ活動や影響工作に専念する部署を再設置するよう求める文言を盛り込んだ法案を可決した。
戦略国際問題研究所(CSIS)上級顧問のジム・ルイス氏は、中国イニシアチブについて、「中国系の人たちを調査せざるを得ないので誤解を生みやすい」としつつも、「これこそ米国が行うべきことだ」と再導入による監視強化の必要性を訴えた。
(ワシントン山崎洋介)
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