
1975年4月29日、朴正熙政権は時局特別談話を発表した。翌30日、“ベトナム政府”が崩壊。政府は反共安保へ収斂(しゅうれん)し、全国各地で安保決起大会が相次いで開かれ、中学2年生だった筆者の同年代も時局講演会によく動員された。
「ボートピープル」のニュースを聞きながら、韓国も滅びるのではないかという不安感でいっぱいになり、「ソ連」と「中共」「北傀」(北朝鮮)に接している地政学的宿命に絶望し、神に朝鮮半島を米カリフォルニア半島の横に移してくれるよう真剣に祈った。
そうしながらも、このような願いの荒唐無稽なことは分かっているので、内心、韓国が大陸勢力と海洋勢力のどちらからも影響を受けない中立国になることを願った。
このような時、最初の米国留学生兪吉濬(ユキルジュン)が満29歳で執筆した「中立論」(1885年)は「西遊見聞」にも劣らず、私に魅力として映った。壬午軍乱(1882年、軍のクーデター)と甲申政変(1884年、開化派によるクーデター)で全国が大きく動揺し、英国の巨文島占領によって政局が混沌に陥る中で執筆したからだ。
彼は朝鮮の地政学的条件を欧州のベルギーやブルガリアと比較しながら、朝鮮もこうした条件をむしろ列強間の緩衝地帯の基盤にしつつ、均勢(均衡)外交政策を取ることを求めた。同時に、当時の清の莫大(ばくだい)な影響力を意識して、中国との関係に重心を置きながらも、清の不当な干渉は批判した。
彼のこの構想は師である魚允中(オユンジュン)の「朝鮮永世中立国」構想と変わらなかった。魚允中が朝鮮を「アジアのスイス」にしたかったなら、兪吉濬はベルギーとブルガリアのような小国を志向した。また、彼のこの構想は政府の均衡外交政策とも一致した。
しかし、同構想は日清戦争と下関条約(1895年)、日露戦争とポーツマス条約(1905年)によって打ち砕かれた。日本を大陸勢力の影響力を遮断する「アジアの憲兵」としていた英米など海洋勢力の出方が何よりもカギだったからだ。そして西欧列強のこうした属性を巧妙に活用した日本の外交戦略が、大韓帝国政府の均衡外交政策を国際社会から押し出したのだ。
従って朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に逃亡した「露館播遷」(1896年)後に長い亡命生活に入り、その後故国に戻った兪吉濬に残された道は、順応そのものだった。帝国主義の時代を生きていく知恵だけが必要だったのだ。
しかし、彼は韓国歴史の文明性と韓国人の潜在力を信じていたので、教育、福祉事業、国文法の研究に邁進(まいしん)し、1914年9月30日、腎障害で栄辱が交差する生を閉じた。それでも米中覇権論が幅を利かせる今日、彼の「中立論」は単なる夢想家の寝言として片付けることはできない。
(金泰雄ソウル大教授、9月16日付)





