韓国の尹錫悦大統領による「非常戒厳」宣言とそれに伴う国会への兵士投入などを受け、尹氏の罷免を要求する弾劾訴追案が国会で可決、尹氏の大統領職務が停止された。尹氏が戒厳宣言に踏み切った背景や今後の行方を探った。(ソウル上田勇実)
「民心を尊べ、民心は弾劾だ」
今年4月13日、ソウル中心街の光化門。わずか3日前に実施された韓国総選挙で左派系野党・共に民主党が圧勝したことを受け、左派系市民団体「ろうそく行動」が主催する集会の参加者たちが大通りを練り歩きながら気勢を上げた。
尹氏に反対する野党側がまとまれば192人。国会(定員300)での弾劾訴追案可決に必要な3分の2以上の200人に、あと8人まで迫った。左派陣営は少なくとも8カ月前から「あと一押し」で尹氏弾劾に道を開くチャンスを本気で狙っていたとみられる。
その“好機”は思いがけない形で訪れた。大統領による突如の「非常戒厳」宣言だ。
軍幹部らは尹氏から、国会に突入して野党議員らを逮捕したり、不正選挙疑惑がある中央選挙管理委員会に入って不正の証拠をつかむよう直接指示されたと証言した。防犯カメラなどに映し出された現場の生々しい光景に多くの国民は衝撃を受け、憤慨した。
厳しい寒さにもかかわらず、国会前では連日、「尹氏弾劾」を叫ぶ「ろうそく集会」に数万人が押し寄せた。各種世論調査で尹氏の支持率は10%台前半まで落ちた。1回目の訴追案採決では可決を防いだ与党・国民の力も、韓東勲代表の失言などで求心力を失っていった。もはや尹氏擁護は限界だった。
野党は尹氏に「違憲・違法の素地あり」として2度目の訴追案を提出し、14日に可決。その一方で、内乱罪に相当するため逮捕・起訴が妥当と主張している。尹氏の夫人、金建希氏を巡る各種疑惑を再捜査する特別検事制が導入されれば「尹氏夫妻の今後は悲劇的」(保守系の政治評論家)と予想する声すらある。まさに一気呵成(かせい)の尹氏追い落としである。
しかし、釈然としないのは、尹氏がなぜ非常戒厳という緊急手段を動員しようと考えるに至ったのかという動機に多くの国民が共感しなかったことだ。
尹氏は非常戒厳宣言(今月3日)のテレビ演説で「従北反国家勢力(=共に民主党)」の横暴に歯止めをかけるためだと説明し、国民向け談話(同12日)では横暴の具体例を挙げた。
「自分たちの不正を調査した監査院長や検事たちを弾劾し、判事を脅迫した」こと、釜山に停泊中だった米空母をドローンで撮影した中国人などをスパイ罪で処罰するための刑法改正を「巨大野党が頑強に阻んでいる」こと、「金融詐欺事件、社会的弱者を狙った犯罪、麻薬捜査など民生侵害事件の捜査、対北朝鮮捜査に使われる緊要な警察と検察の来年度特別活動費をゼロにした」ことなどだ。
政府系シンクタンクの元トップは「周囲の意見を傾聴しない独善的な人事や政策などを見れば尹氏には好感を持てないし、戒厳令という手段は100%間違っていたが、共に民主党がやってきたことを見れば反国家勢力という指摘は正しい」と指摘する。
1回目の訴追案に同党が「尹大統領が北朝鮮、中国、ロシアを敵対視し、日本中心の奇異な外交政策に固執した」と記したことを見れば「共に民主党の指導部の頭の中は反日、反米」(保守系の安保専門家)であるのは明らかと言える。
だが、尹氏の訴えに耳を傾ける国民は少なかった。「誇大妄想だ」「気が変になったのでは」という非難があふれ、一部保守層でも「弾劾やむなし」の声が上がった。
今年7月、共に民主党に対する違憲・解散審判請願書の法務省提出を主導した保守系政党「自由民主党」の高永宙代表は「国民の大半は共に民主党がまさか自由民主主義秩序を壊そうとしているとは思っていない。尹氏は内乱を起こそうとしたという左派の扇動に国民が踊らされている側面もある」と述べた。